番組名は忘れてしまったが、つい最近のテレビである。モルドバ(旧ソ連を構成していた国の一つ)からモスクワへ出稼ぎに行く父の姿がそこにあった。幼い子ども三人を残し、その分かれの朝の最後の言葉が「袋一杯のお菓子を買ってくるからな」だった。貧困は一日数ドルでの生活を強いており、その強いられた生活にも耐えられなくてその父は出稼ぎの道を選んだ。それにしても「袋一杯のお菓子」とはなんと悲しい一言だろうか。

 「飢え」と「腹が減った」とは違うと私は以前から繰り返しているけれど、それはどこか飽食との対比によって飢えをとらえていたような気がする。しかしこのモルドバの別れは、そんなことでは説明のできない「命」そのものを示しているように思えた。実質的な物価などが日本とモルドバでどの程度の違うのか必ずしも私は知らない。例えば10ドルは現在の円相場では800数十円になるけれど、それ以下の賃金、例えば2ドルや3ドルで生活することなど日本では及びもつかないから理解の片鱗に届くことはできる。ただこの父親の言葉からするなら、恐らく「出稼ぎによっても解決できないほどの貧困」がその一家にのしかかってきているような気がする。

 私自身にもひもじさの経験がないわけではない。第二次大戦後直後の食糧難や配給制度、そして農家への買出しなどによってかろうじて食べることを維持してきた生活は、そのままひもじさであった。だがそれはあくまでも「腹減った」に通じるものであり、「飢え」や「餓死」につながるような思いではなかった。

 それでも「ひもじさ」は、生き抜くための一つの力になっていたような気がする。食べることが生きることと同義であることを、少なくとも私たちはひもじさから教えられたような気がしているからである。「私たち」と書いたのは当時はまさに日本中の多くがひもじさの中にあり、その中で「食べること」の意味を多くの人たちが自分のこととして覚悟していたからである。

 それが飽食の時代となり、今やそれを超えてひもじさなど知る人のいない時代になった。そして飽食が奪ったのは単なる「ひもじさ」だけではなかった。満腹や贅沢にまで届いてしまった飽食は、単なる肉体的な満足の範囲を超えて精神の分野にまでその勢力を拡大しようとしている。満腹はあらゆる欲求への努力を鈍磨させ、緊張を弛緩させるようになった。「満足」や「満腹」は、新しい挑戦への意欲をことごとく阻害し、もしかしたら「惰眠」への道だけを残したのかも知れない。

 最近「ゆらぐ権威」と題する朝日新聞の特集が組まれていた。私の読んだのは画壇をめぐる論評であった。副タイトルに「巨匠去り 失った頂点」、「切磋琢磨忘れた団体 『足を食べるタコ』」とあるから、それだけで記事の内容が分かるかも知れない(朝日新聞、2010.12.4)。その中でこんなことを話していたとの紹介記事が載っていた。「・・・戦後の精神的な飢えが才能を欲し。巨匠を求めた。だが、今は不満はあっても飢えはない」(東京美術商協同組合副理事長)。

 今や画壇に限らず、例えば芸術院なども会員になることで年金がもらえたり作品の価格が上昇したりするので、会員への推薦を貰うべく手土産持って先輩会員を数多くあいさつ回りするまでになっているとの話もこの特集記事の中で読んだ。
 人が権威を求め、権威に金銭的な価値もまた付随してくる事実は古今を問わずに存在していたことを否定はすまい。だが人はどこか「飢え」とか「ひもじさ」をなくしてしまうと、そうした安定の中にいつしか埋没してしまい、生き抜くためへの戦いを忘れてしまうのではないだろうか。

 「ケータイがないと生きていけない」とニコニコ顔で話すギャルたち、ファッションやブランドにうつつを抜かす若い女性たち、評判スイーツに並ぶ主婦、そして一方で引きこもりの中で自暴自棄になっていく若者たちがいる。多様な人々の存在は、それだけ社会が成熟していることの証左なのかも知れないけれど、ひもじさを知らないことが人に苦労の意味を教える機会を奪ってしまい、その結果増えてしまった苦労知らずの若者の存在がどこかで現代社会の病理につながっているように思えてならない。

 そして年に3万人を超える自殺者数にも、どこか「闘う気力」を失った人の存在が影を落としているように思える。しかもそれに私はどこか同調や同情を重ねられないでいる。そうした背景を作っている一因にひもじさのない時代、飢えを知らない世代の増加、飽食にどっぷり浸かって満足が当然だと思い込んでしまっている世代の溢れがあるように思う。そうした背景がつまるところ「戦うこと」を忘れてしまった世代、いやいや「戦うこと」そのものを知らない世代を増やしているのではないかと思うのである。

 こうした現象は人間の種としての存続にもつながっているように思える。「生めよ増えよ地に満てよ」は神がノア及びノアと共にいる子らに語った言葉だが(旧約聖書、創世記9章7節)、これは人に対するだけでなく種としての生物全体への命令でもあるのではないだろうか。たとえ食べることで相手を抹殺する結果を招こうとも、食べることは生きることであり、種に与えられた基本的・究極的な指令である。それはライオンやクジラに限るものではなく、細菌やウイルスの類に至るまでの絶対的命令である。その命令は結果として生き抜くことであり、食べることであり、子孫を残すための「飢え」からの逃避につながるものだと思うからである。

 「飢え」を知らない世代の増加は、結果として「生き抜く気力」の欠乏につながることにならないだろうか。こうした状況は、私の思い過ごしかも知れないけれど最近増加していると言われている「草食系男子」の広がりもまた、こうした状況と無縁ではないように感じているのである。



                                     2010.12.22    佐々木利夫


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飢えのない時代