「税金に和解はない」、私は今でもこの言葉を信じている。互いに歩み寄ることによる和解そのものの意味や効果を知らないではない。対立から調和へと人は様々な紛争の解決手段を目指してきたのだし、その過程においてどこかで妥協点を探ろうと模索してきたその努力の道筋を理解できないではない。

 それでも私はこれまで、税金に和解はないと思って仕事をしてきた。それは租税法律主義の下では、課税する側と納税する側との間で妥協することなど認められないと思ってきたからである。それはまさに申告納税制度の下において、決定されるべき判断は法律(租税法)が果たさなければならない役割の一つだと信じているからでもある。

 確かに税においても紛争は存在する。ある経済的事実が利益になるかならないか、なるとするならそれはどんな種類の利益で、誰の利益で、どの年分の利益なのか。損失についても同様である。ある支出が損金なり必要な経費になるかならないか、誰の損失なのか、いつの損失なのか。こうした疑問は課税する側と課税される側、そしてそのはざまに位置する私たち税理士などにも常に発生するテーマである。

 だがその答を「話し合いで出すこと」、ましてや「妥協点を探る」などの方法で見つけることは間違いだと思っている。
 もちろんそうした答を、法律の解釈として互いに一致する点を見出すことで解決しようとする努力を否定するものではない。ある支出が、この税法のこのような解釈によって利益から控除されるなどの見解がその問題提起にかかわる当時者間で法の理解として一致するよう「話し合う」ことを否定するものではない。だがそれは決して妥協であってはならないはずである。理解の一致とは法の解釈の一致であるべきだからである。

 こんな考えでこれまでの人生を続けてこられたのは、もしかしたらとてもラッキーな環境にいたことの証なのかも知れない。例えば政治決着であるとか、大人の駆け引きなどと言う言葉が存在していること自体、世の中がそんな理屈で割り切れるほど単純なものではないことが示されているのかも知れない。単に政治の世界のみならず、時に必要悪だのなんらかの譲歩を引き出すためだのと言われて個人にも企業にも、更に国際的な交渉にまで和解や妥協が用いられている事実を知らないではない。

 だが私がこれまで税界に長く身を置き、退職後も税理士として同じような環境で生活を続けることができているのは、この「税金に和解はない」を少なくとも私の生き様としてバックボーンに据えることができたからだと思っている。もちろんその背景には、これまで税界生活で審理を担当するポストにいたことや、東京で税法に関する長期の研修を受けたり論文作成に携わったこと、更には国税不服審判所に都合三度にわたる勤務があって租税裁判に類似した仕事に従事したことなど、比較的税法の解釈に係わる分野への関与が多かったことが背景にあるのかも知れない。そしてその後も税理士として同じように租税法の解釈と適用という仕事を続けることができたことで、どうにか自分の哲学を曲げることなく過ごしてこられたような気がしている。

 もちろん私の生き様がそのまま仕事でも更には私人としての生活面においても満点だったとは言えないだろうし、「己の哲学を曲げることなく」と言ったところでその評価は自分が自分に対して行ったものでしかないのだから、「どこまで曲がっていたか、どの程度真っ直ぐだったか」などについては多分に危うさの残るであろう判定を否定はできない。

 だがつまるところ人生は自己評価である。中国の古いことわざに、「棺(かん)を蓋(おお)うて事(こと)定(さだ)まる」と言うのがある。もしかすると人の一生に対する評価は死後において他者に委ねるのが本来なのかも知れない。しかしながらそうした評価の致命的な欠点は、そうした評価の場に評価されるべき人が存在していないことにある。私のいないところで私がどんなに褒められ、またどんなに貶されたところで、少なくとも私にはなんの快感も痛痒もない。

 「評価はいずれ歴史が下すことになるだろう」、そんな気の利いたセリフを知らないではないけれど、私がそれを言い放つほどの器でないことくらい自身が十分に知っている。そんな当てにならない後世の評価を待つくらいなら、そして場合によっては評価される機会そのものが巡ってくることなどないであろう現実を前にするなら、生きているうちに自分で評価することの方がずっとずっと自分にとって納得できるというもんだ。その自己評価が仮に他人のそれと違ったところでどうってことはないのだし、歴史の評価を待つなどと自惚れたところで私が不存在になると同時に私のことなど誰一人、よい面にしろ悪い面にしろ思い出す者などいないことの蓋然性の方が間違いなく高いだろうからである。

 他人の評価を気にしながら生きていくのも一つの人生だとは思うけれど、他人が本当のところ私のことをどう思っているかなんてことは、実を言うと誰にも分からないのではないだろうか。ただ都合のいいことに、人はそれでもなんとか生きていけるのだと思うのである。

 そうした中で法律は一つの道筋を与えてくれる。もちろん法は人が作ったものである。国会が制定するといっても、その制定には国会内の様々な利害や思惑が行き交うことを知らないではない。それでも制定法は一つの文字、そして「かたち」として存在する。それは制定されると同時に、自動的に一つの目的と意思を持つのではないかと思うのである。だから私は法律が好きなのである。そしてその中の税法という小さな分野であったにしろ、そうした法律の世界に我が身を置くことのできた人生を今でも楽しめているのである。

 だから、頑ななのかも知れないけれど私は「税法に和解はない」と今でも思っているのである。税がもし和解によって決定されるようなことがあるとしたなら、それはむしろ法の持つ精神をないがしろにしてしまい、権力の腐敗へとつながってしまうことになるのではないかと密かに恐れるからである。



                                     2010.7.8    佐々木利夫


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税金と和解