2011.3.11に起きた東北関東大震災はまさに世界でも類例の少ないほどの大事故になった。マグニチュード9.0とされるこの地震は、地震波が地球を10周したとされるほどの規模となり、10メートルとも40メートルとも言われる津波によって三陸海岸を中心として死者9,523人、行方不明者16,094人以上、計25千人を超える被害になっている(2011.3.23、警察庁発表)。行方不明者数は警察に届出のあった者に限られていて、例えば家族全員が行方不明などの場合などは届出そのものの提出がないと考えられることから、更に増加するだろうといわれている。しかも地震からすでに12日を経過していて、特別の事情で生存している可能性もゼロではないにしても、行方不明者から死者への振り替えは当然に予想されるところである。

 さてこの巨大地震によって、福島県の福島第一原子力発電所の原子炉が1〜6号炉までの全部について異常が発生した。特に1〜4号炉については炉心溶融を含む壊滅状態にあり、建屋の爆発が起きるなど放射能が撒き散らされる状態が続いている。すでに原子炉から20キロメートル以内の地域に対しては退避指示が出され、30キロメートル以内は大気からの放射能汚染を避けるために屋内に待機して外出しないようにとの措置がとられている。現在はこうした放射能汚染の拡大を防ぐため、炉そのもののコントロールを取り戻すための電力の供給、炉心の温度を下げるための海水の注入などの作業が続けられているが、放射能汚染された環境下での作業であることや建屋の中から時折黒煙や白煙が上がることなどから遅々として進まない状況にある。

 ところで原子炉事故に伴う放射能汚染は原子炉から30キロ以内の範囲に納まるものではなかった。風に乗り、雨や雪に流されて汚染物質は拡大するばかりである。そうした影響が最初に表われたのは野菜であった。福島県内のホーレンソウやかき菜などの葉物野菜に食品衛生法で定める基準値を超える放射能が検出され、次いで原乳つまり牛乳へと及んだ。それらは直ちに出荷停止であるとか摂取制限などの政府指示につながった。だがそうすることで放射能の影響が止まることはなかった。

 放射能汚染は福島県のみならず隣の茨城県や栃木県、群馬県、千葉県などにも拡大し、県によって規制作物の種類は異なるものの小松菜、みず菜、春菊などへと増加するばかりである。そして3.23日、汚染はついに飲料水にまで広がった。現状では乳児向けの水、つまり粉ミルクなどを通して体内に摂り込まれる水の飲用に限定され大人は大丈夫と言われているものの、汚染は東京の浄水場にまで拡大し飲用不可との判断がされたのである。つまり東京都内を含む巨大な地域に対して水道水を赤ん坊に飲ませるなの指示になったのである。

 こうした汚染に対しても政府や専門家は口を揃えて「安全」を繰り返している。その根拠はつまるところ法律が定めている安全基準の数値にある。その基準は汚染された物質を一年以上体内に摂り込んだ場合の危険性を想定して定めているので、数日程度の摂取によって健康被害が出ることはないとするものである。だから多少口にしたところで政府の指示に従って「今後摂取しないように心がけていくなら」危険はないとの言い分である。
 そしてその基準値として「ベクレル」だの「マイクロシーベルト」、「ミリシーベルト」などの専門用語つきの数値が口にされ、例えば「一年間口にしても、胃のレントゲン写真やCT検査で受ける一枚分程度の放射能である」だとか、「海外旅行で飛行機に乗っただけでこれこれの量の放射線を受ける」などの言葉が添えられる。そして更に例えば「飲料水に含まれる放射性ヨードが体内に取り込まれる割合は飲んだ量の10%程度であり、しかもその半減期は8日である」だとか、「同じく水道水に含まれている放射性セシュウムの半減期は30年と長いけれど、一週間くらいで体外に排泄される」などの意見も付け加えられている。

 私はそうした個々の基準値であるとか半減期などの数値を信用できないというのではない。それにもかかわらず政府や専門家がネクタイ背広姿、現場の汚れなど一切ついていないまっ更の作業衣姿で発するこうした言葉がどこか間違っているいるように思えてならないのである。数値が正しいのなら、その数値に基づいたコメントもまた信頼していいのではないかと思うかも知れない。でも本当にそうなのだろうか。

 それは公式発表などの言葉を聞いていると、そうした数値はすべて放射性物質単体の意味でしか使っていないと思えるからである。例えば「水道水に含まれてはいけない放射性ヨードの基準値は1リットル当たり300ベクレル(乳児は100)以内である。測定した値は210ベクレルであった。したがって乳児以外の大人・子供がこの水道水を飲み続けたとしても健康被害が起きることはない」との言葉を検証してみよう。私はこの言葉が誤りだといいたいのではない。また、「放射能はゼロが望ましいのだから、例え僅かにもしろ飲料水に含まれるのを許してはいけない」とするような意見を持っているわけでもない。

 でも「300ベクレル」を基準として定めそれ以下を安全だと認めたのは、それが飲料水単体を基準とした判断ではないかと思うからである。例えば何らかの事情で水道水に放射能物質が混入されたとする。そのときにその水を住民に供給しても安全かどうかを判断する基準としてこの300ベクレルがあると思うのである。ならば今回も同じではないか。たまたま原発から飛んできた放射能が混入したのだから、それもこの基準に基づいて給水の是非を判断してどこが悪いというかも知れない。

 それでも私は少し違うと思うのである。仮にテロリストやどこかの異常者が一掴みの放射性物質を貯水池に投げ込んだとする。そしてそれによる汚染が300ベクレル以内であったというに止まるなら、私はこの基準に従って飲料水を住民に供給することの是非を判断しても何の異論もない。それと今回の原発事故とどこが違うのか。それは汚染がその貯水池だけに限定されているからであり、その汚染は時間を経ることによって確実に減少していくことは立証するまでもなく誰の目にも明らかだからである。
 もちろん自然界にも一定の放射能が降り注いでおり、人体はそうした放射能を日夜受けて続けていることを否定するものではない。それは防御不能として考慮してもいいだろう。むしろそうした放射能を受ける状態のもとで人類もまた種として進化してきたとも言えるからである。そして300ベクレルもまた、そうした自然に受ける放射能を考慮した上で決定された値だと思うからである。

 しかし今回は違う。貯水池だけに限定された飲料水の汚染ではないし放射能が日々減少していくとの保証もない。野菜や牛乳が汚染されているという状況は、空気中に汚染物質が広く拡散していることを示している。それは現に原発で汚染拡大を防ぐために多くの作業員が放射能汚染の中で戦っていることからも分かる。しかも福島県を中心に少しずつ汚染の範囲が広がっていることは、毎日発表される放射能の測定値からも分かってきている。つまり、その測定値が住民の避難や飲食物の出荷停止に至らないまでも、僅かにもしろ汚染が広がっていることを示しているということである。空気中に僅かにもしろ汚染物質が漂っているということは、呼吸する空気中にも、安全と言われているりんごもに、そしてスーパーの海外産の魚介類や陳列棚に並んでいる衣服にだって、僅かかも知れないけれど確実に降り積もっていることでもある。そしてその放射性物質は僅かにもしろ、直接間接に体内へと摂り込まれることになるのである。

 私の体は一つである。ヨード向けの体や、セシウム対応の体を別々に持っているわけではない。そして今日の私は昨日の私の上に成り立っている。それはつまり、私の体に対する放射能の影響は、飲料水だとかほーれん草と言った個別の品物に対応しているものではないということである。放射能は私の体に対して累積的に、そしてあらゆる商品を通じて「加重される」という形で影響を与えているのである。

 そうした累積的加重的な側面に触れた政府や専門家の意見が一つも聞かれないことに、私はどこかおかしいのではないかと感じるのである。そしてこうした識者などの発する安全発表そのものが、どこか胡散臭く思えてくるのである。水単体では基準値以下だから大丈夫という、それはそれで正しいだろう。でもそうした安全な水と基準値以下だと言われている小松菜などを共に口にしたらどうなるのだろうか。そしてそれに僅かだから大丈夫といわれる大根やにんじんを食べ、そして場合によっては病院でレントゲン撮影を受け、そしてごく微量だろう自然界の放射能を避けがたく浴びる。もちろん呼吸なしで私は生きていくことはできないから僅かにもしろ空気中の放射線を吸い込む。こうした累積された意味を「放射能の安全」の語に与えるのでなければ、例えば「放射線による健康被害の恐れはありません」などとは言えないし、また言ってはならないのではないかと思うのである。
 「レントゲン一枚分の放射能だから安全だ」だって本当は疑問である。レントゲンだって照射しないほうがよりベターではないかと思うからである。ただ、撮影による診断のメリットと被曝のデメリットを比較した上で私たちはX線の照射を受容しているのだと思うからである。

 今年の冬は暖かだったといわれているが、それでも東北はまだ雪の中である。津波による瓦礫の上にも毎日のように雪は降り積もっている。原発から拡散している放射能の原因を放射能灰と呼ぶのは間違っているかも知れないが、灰は雪の上に積もり、雪そのものに混じって積もる。春は近い。やがて雪融けは諸々を水源地へと流し込むことだろう。原発近隣地域の野菜などが売れなくなり、外部からそうした地域への商品の配達も嫌う人も出てきているという。それを風評被害だと人はいう。でも風評とは事実無根の噂による影響をいうのではないだろうか。原発由来の放射能値がゼロであり、測定値が自然界に存在する程度であるにもかかわらず、そうした被害が出ているのならそれを「風評」と呼ぶのにやぶさかではない。でも「基準値以下」であることをあたかも「ゼロ」であるかのように擬制し、「だから風評だ」と叫ぶのはどこか間違っているのではないだろうか。



                                     2011.3.24    佐々木利夫


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放射能の安全基準