こうした食品汚染とどう向き合うかは生産者はもとより消費者にとっても大きな問題である。放射線防護学という学問があること自体私はこの新聞記事で始めて知ったのだからあまり大きなことは言えないけれど、その学者である安斎育郎氏はこんな見解を述べていた。

 「・・・例えば。福島県産と愛媛県産のホウレンソウが並んでいて愛媛県産を選びたくなる気持ちはわかります。そっちの方が汚染の可能性が少ないことは放射線防護学的原則として間違いじゃない。だが、福島県産と聞いただけで心を閉ざすのは、被災した生産者を苦しめることになる、という考えもあります。・・・基準以下でも放射能のあるものは一切嫌だと判断して行動する自由もあります。一方で、『それは生産者を苦しめる非理性的な行動だ』と批判する自由もあります」(2011.9.9、朝日新聞、「食品汚染 どう向き合う」)

 二つの反する意見の選択を各人の自由だとして並列することに異論はない。だがそれを放射線防護学者という専門家が自らの意見として表明することは、私には違和感を超えて間違いだとさえ思えてしまう。もちろんそう考える前提として私の中に、「基準値以下の放射能は人体にとって現在、将来、子々孫々の未来ともども絶対安全である」との確信が持てないことがあるからだろう。だがそうした絶対安全はまだ理論的にも疫学的にも立証されていないように思えるのである。そんな状況の下で「放射能汚染による危険の判断」と「生産者を苦しめるという判断」とを対等なレベルで比較させることそのものが、私には非理性的、いやそれ以上に非論理的に思えてならない。こうした意見には「仮に自分の体に多少悪影響があるとしても、生産者の苦しみのためには我慢すべきだ」みたいな意思の存在が背後に感じられてならないからである。

 さてこれに続いて同じような意思の感じられる記事が載っていた。「人体に悪影響が見出されるのは、生涯の累積で100ミリシーベルト」との基準の大枠が食品安全委員会から厚労省に9月中に答申されるとあった。そしてこの基準には食品だけでなく外部被爆も含まれるのだそうである。
 記事はこの記述に追い討ちをかけるように続ける。「・・・ただ厳しくしすぎると、東日本の食品で出荷停止が続出する事態になりかねない・・・」(9.11、朝日新聞)。それはそうかも知れない。でもこの記事を書いた者は「出荷停止の続出」と「人体の安全」とを秤にかけていることに何の矛盾も感じていないのだろうか。人体への多少の影響があっても、生産者の経済活動を阻害するよりは放射能による影響を受忍すべきだと本当に思ったのだろうか。この記事に私は呆れるとともに、少なくとも「出荷停止の続出」という事態を避けるなら安全基準から外れた環境に人々が置かれる場面があってもいいと、まともに思っている人間がいることだけは理解できたのであった。

 色々な意見のある状況のもとで我々が考え得ることは何か。一番単純な判断基準は「放射能低ければ低いにこしたことはない」しかないだろう。放射能によるなんらかの影響を受けた後になって、「あのとき、こうしておけば良かった」と後悔しても遅いことだけは間違いがない。少なくとも放射能に関しては、決定的に「後悔先に立たず」であることは誰にも理解できる疑問の余地のない命題だからである。

 「安全」や「絶対」に対する政府や専門家の意見の不確かさ、検査のすり抜け、毎日発生し続ける放射能、こんな環境の中で私たちが出来ることはなにか。「この子は5歳だから、生涯被爆100ミリを基に一日に換算すると○○で、これ以外の外部被爆これこれを考慮するなら食品からはこれくらいとっても大丈夫」、「私は40歳だから許容量はこれくらいで、おじいちゃんおばあちゃんはもう少し高くてもいいか」、こんなことを考えてスーパーで買い物をし毎日の食事の支度をすることが果たしてどこまで可能なのだろうか。またそうした計算ができるほどの情報がきちんと伝わり、理解でき、素人にも判断できるような体制の実現が果たして可能なのだろうか。私にはそんなことは無理だと思えてならない。

 この事故が起きてから私はここで何度も書いた。放射能汚染の恐怖とは累積なのである。今口にする牛肉は安全基準値以下である。そのことは分かる。だが道を歩いていても、水を飲んでも、場合によっては住んでいるだけで基準値以下と称する放射能の中で人は暮らし続けていかなければならないのである。
 通学路を安全ルートに変更する、校庭の土地の除染をする、庭先や農地の除染をする、これらはすべて「大丈夫です。でも万が一を考えて・・・」による発想である。つまり、もしかしたら放射能の影響が将来発生するかも知れないとの思いが捨てられないからである。そうした「かも知れない」が100分の1なのか、万が一なのか、それとも100万分の1なのか、それは分からない。それでも「もしかしたら・・・」の思いを人々、そして政府や公共機関も捨てきれないのが現状ではないだろうか。

 そんな状況の下で、放射能の知識などほとんど持ち合わせていない私たち、しかも味も匂いもなく、存在を感じることさえできない放射能に対して、私たちはどう対処していけばいいだろうか。一番手軽なのは、政府の発表を鵜呑みにすることである。安全といってるのだから安全なのだと信ずることである。その政府への信頼が崩れてきている。嘘だとは言えないまでも、どこかで胡散臭いと多くの人々が疑っている。

 そしていつもの私の悪い癖が出てしまうかも知れないが、一番確実な対処法、それは「君子危うきに近寄らず」の一言である。「触らぬ神に祟りなし」である。安全基準も上限もあったものではない。「放射能に近づかない」ことである。そうした行動を風評だの噂だの思い過ごしだのと言われようとも、そして時に過激だと批判されようとも「福島産には近づかない」ことや「汚染の疑いのある食品には絶対近づかない」ことが、その行動をどんなに非常識だと非難されようとも確実な手段ではないかと思うのである。
 だから私は福島を毛嫌いするかのような多くの人々の思いや行動を、そんなに違和感なく理解できるのである。テレビカメラの前で、いかにも安全みたいな顔つきで果物を食ったり魚を食ったりする奴の姿は、どこかアホ面に見え行政やマスコミのやらせではないかとさえ思ってしまうのである。

 そんなことになったら福島経済は先行きが見えなくなってしまうだろう、どうすればいいかと問われるかも知れない。簡単である。「絶対安全」を誰もが理解できるような形で透明化することである。「安全基準以下だから無罪と推定する」のようないい加減な表現ではなく、「ゼロ(少なくとも自然界放射能値、すなわち原子炉由来の放射能の未検出)」になるような対策を立て、表示すべきだと思うのである。

 そうした絶対安全の信頼を取り戻すまでは、仮に安全基準値以下であっても政府は「安全」との宣言だけでなくその安全と評価した測定値までをも表示させるべきである。表示したら売れないかも知れない。私も多分買わないだろうと思う。でも出荷停止の基準が仮に100だとして、99を安全と判断するか子どもが小さいから20以下になるまで口に入れないでおこうとか、または中には0になるまでこだわる人だっているだろう。その人なりの判断で、一つの基準を抱きその数値以下なら口に入れても大丈夫だと思う人はきっと買ってくれるだろう。だから原産地や原材料表示に加えて放射能値もすべての商品に表示する必要があると思うのである。「放射能は低ければ低いにこしたことはない」と私は思い、そして臆病かも知れないけれど敢えて「虎穴に近づくようなことはしない」との信条だけは変えたいと思わないのである。

 そんなこと(原子炉由来の放射能の完全除去)は不可能だと言うのだろうか。だとすれば、絶対安全の宣言など不可能だと言っているのと同じであり、それで風評被害が発生するのならそれは事故を起こした者の補償でカパーしていくしかないだろう。その補償を何の過失もない国民の人体であがなうことなどもってのほかだと、私は頑なに思っているのである。

 何度でも言う。放射能は煮ても焼いても消滅させることはおろか減らすことすらできないのである。減らせる方法は唯一時間経過を待つだけであり、その待つための時間も半減期だけで数十年、数百年である。つまりいったん口に入れたら一生抱え込む覚悟だって必要になるのである。しかもその放射能は累積していくのである。

 この累積の意味と、放射能ゼロの生活は生活そのものが不可能であることを掛け合わせて見よう。その数値を政府が安全基準内と呼ぼうが呼ぶまいが、飲む水にも吸う空気にも口に入れるもの全部に、なんなら着ている服や下着やそれを洗う洗剤や触って遊ぶおもちゃにだって放射能は含まれている。このことは私たちが日常生活において放射能から逃れることなど決して出来ないことを意味している。そんな状況の下で私たちがすぐに選べるもっとも確実な方法は何か。誰にでも分かり易くしかも実行可能な呪文は何か。

 「絶対安全になるまで放射能には近づくな、危うきにも近づくな、避けられないならリスクを最小にせよ」、これしかないことに、どうして人は気づかないのだろうか。そして気づいたことやそれを実行することが、どうして批判されなければならないのだろうか。



                                     2011.9.22    佐々木利夫


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つのる安全神話への不信(2)