スポーツ嫌いの私だから、サッカーのアジア王者を決めると言うアジアカップで日本が優勝したところで特別な感慨などない。またそのニュースがテレビやラジオやネットなどでこれでもかと繰り返されたところで、まさに馬耳東風そのものであった。それは別にサッカーを卑下しているわけでも、サッカーと言うスポーツに反対したいなどの意図を持つものでもない。単に興味がないと言う、私だけの問題でしかないからである。

 新聞を見ていても同様で、せいぜいが「どうしてこんなにスポーツ記事が多いのだろうか。スポーツ新聞という専門誌が何紙もあるのだから、スポーツ記事を載せないと言う低価格紙があってもいいのではないだろうか」と思う程度のへそ曲がりである。

 そうした目線でスポーツ記事を読み飛ばしていて、普段ならさっと通過するはずの紙面にふと引っかかる見出しが目に入った。「日・豪 譲らず延長へ、アジア杯決勝」(2011.1.30、朝日)と書かれていた比較的小さな見出しである。そこで紙面をめくる手がふと止まってしまった。

 日本がアジア大会の決勝にまで進んだことについては、テレビを見ていて否応なく耳にしていた。決勝の対戦相手についても、私自身には興味がなくても恐らく何度も繰り返されたことだろう。だとすれば対戦相手がオーストラリアであることも当然に報道され、私の耳にも届いていたことだと思う。

 さてそこで私の無知の披瀝である。サッカーは人気のスポーツだし、日本のチームが決勝まで進んだのだから恐らく私にも「決勝相手オーストラリア」の話題は何度も耳に入っていたはずであることはすでに書いた。にもかかわらず私はそこに何の矛盾も感じてはいなかった。つまり聞き流していた私の耳は、オーストラリアとオーストリアの区別がついていなかったと言うことである。二つの国名が混乱していたというよりは、むしろそうした国名の違いにすら興味がなかったというべきかも知れない。

 それは、どうしてアジア大会にオーストラリアが入っているのだろうかとの単純な疑問である。もちろん考えてみれば(考えなくたってすぐに分かることだが)、オーストリアの首都がウイーンでイタリア北部そしてドイツに近い国であるくらいの知識はあるから、アジア圏でないことに気づいてもいいはずである。それでも聞き流してしまっていた背景には恐らく「ヨーロッパと言ってもアジアの隣の国なのだからまあ許せるか」みたいな気持ちが多少あったのではないかと思う。

 距離感にそれほどこだわるつもりはないのだが、それにしてもオーストラリアは南半球の国である。中国をでんと真ん中に据えるアジア大陸とはまるで異なる地域である。それは経済的にも地勢的にもまるで異なる別の大陸である。忘れてしまうほど昔に学んだことだけれど、ヨーロッパとアジアをまとめて「ユーラシア大陸」と呼んでいたのを記憶している。弁解するわけではないけれど、オーストリアならユーラシアを構成する国としてアジアに含めたところでそれほど抵抗感はないような気がする。
 だが「オーストラリア」をアジアに含めてしまうことには、抵抗感どころかまるで異質だとの気持ちがどうしても拭えないのである。

 そうした疑問がこの新聞見出しにあった「日・豪」の文字で突然沸いてきたのである。それだけ私が古い時代を経験していて、オーストラリアの呼称よりも「豪州」のほうに普段から親近感を抱いていたからなのかも知れない。いまどき豪州などという呼び名は太平洋戦争時代の話か新聞記事での略称くらいにしか使われていないくらいに希薄化していることは理解している。
 こんなことをいまさら言うのは恥ずかしいけれど、オーストリアとオーストラリアとはまるで違う国であり、場所も人種もまるで違うのである。そのことが「豪」の一文字で国の違いがはっきりと分からせられたのである。なぜならオーストリアの日本語表記は「墺太利」であり、略称は「墺」だからである。

 どうしてサッカーのアジアカップの参加国にオーストラリアが入っているのだろうか。なんの説明も解説もなしに、当たり前のようにアジアでない国がアジアに入っているのである。しかもテレビも新聞もそうした矛盾に少しも触れようとしない。

 私はスポーツに興味がない。だからサッカーアジア大会の構成国がどうなっているのか、また、どんな基準で決められているのか、例外があるのかなどについてまるで知識がない。もしかしたらオーストラリアに限らずアフリカ南部の国々や南米の各国などもアジアに含まれているのかも知れない。
 それでも「アジア大会」と呼ぶ以上、そこに「アジア」として了解できるような基準があるのではないかと私は思うのである。

 もしかしたら南半球でサッカーをやっているのはオーストラリアだけで、北半球だけで行われるブロック別の世界大会予選みたいなものにどうしても参加したかったと言うことも考えられなくはない。そしてその予選に参加するブロックの所属として、アジア大陸、そして東南アジアと島々でつながっているかのように見えるオーストラリアを特例としてアジアに含めたのかも知れない。
 何かの要因があって、オーストラリアをアジア圏に含めたであろうことが理解できないではない。でもそうだとするならそのブロック名に「アジア」を冠するのは矛盾するのではないだろうか。

 オーストラリア界隈には、ニュージーランドやパプアニューギニアなどを含めた「オセアニア」の呼称が歴史的にも定着しているではないか。アジア・オセアニア大会とするか、それともオセアニアを独立ブロックとするかなどはともかく、私には「オーストラリアを含めたアジア大会」の呼称はどうしても理解できないのである。
 そんなことどうでもいいのかも知れない。あるブロックをどう呼ぼうと、その構成国をどんな基準で選ぼうとそれでそのスポーツが変節してしまうわけではない。

 それでも私は、名は一つの性格を示しているのではないかと思うのである。「アジアカップ」での優勝者はアジアの覇者であると、誰もが(つまりそのカップ争奪戦に興味のある者も、ない者も含めて)思うのがその大会の性格であり意味ではないだろうか。

 そんな瑣末なことに気をとられているからスポーツを楽しめないのかも知れない、とふと思うことがある。でも高校野球って言うのは高校生同士の野球であり、北海道地区予選で戦うのは北海道内の高等の野球チームであろうことは規約がそうなっているからではなく、むしろ暗黙の了解、つまり規約以前のタイトルなどからくる常識ではないかと思うのである。
 何らかの事情があって、仮に定時制高校や北方領土にある高校が入ってきたというならそれはそれで理解できないではない。でも大学生や社会人のチームが入ったり、北海道以外の例えば沖縄などの高校が入ってくることがあるのだとしたら、それはその名称を信じている人々の思いとはまるで違ってしまうのではないかと思えるのである。

 どこまでが許容範囲かは難しいと思う。スポーツにしろ映画や芸術などにしろ、世界大会と言ったところでその「世界」の中にそもそも当初から参加していない国があった場合、それでもそんな風に言ってしまっていいのかなども疑問ではある。それでも通常に了解できる許容範囲の中で人は暮らしているのだし、そうした意味ではアジアの中にオーストラリアを含めてしまうのは私には許容を超え過ぎているのではないかと思えてならないのである。



                                     2011.2.11    佐々木利夫


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どこまでがアジア?