病気について私たちが知る機会は、どうしても自分や家族などが直接罹患した場合が多いだろうと思う。そして次の機会としては知人などからの話題やうわさ話によるところが多いように思う。いずれにしてもそうした機会は自分を中心にした非常に狭い範囲に限られることになるだろう。もちろん知人の範囲を超えて例えば芸能人や著名人などに及ぶ場合もあるけれど、そうした場合の情報としての病気の意味合いはどちらかと言うと身につまされるものとはなりにくいようである。

 それでも例えば具体的な病気以外にも、例えば健康管理や足が痛い頭が痛いなどの症状が気になることだってある。それらもつまるところ「わが身に置き換えて」探ることが多いのかも知れない。
 そんなこんなで私も折に触れて新聞の健康相談記事などに目をやることがある。まあ、そういうところに掲載されている記事と言うのは、結局のところ確信的な内容には程遠く、結局は「いろいろ考えられるので断定はできません。かかりつけのお医者さんに相談してください」という結語になるのがほとんどと言ってもいいほどなので、新聞記事にすること自体に疑問を持ってしまう。

 そんなどこかへそ曲がりの私なので、気になったといってもそうしたへそ曲がり範囲を超えないのかも知れないけれど、どうも病名のつけ方が気になるようになってきている。
 その一つは病名というよりは「症状名」にしか過ぎないのではないかと思える例が時々見られるからである。

 それは最近の傾向なのではなく、昔からそうだったのかも知れない。私が高校生の頃だから、今から50年以上も前のことである。胸が痛むので診察を受けたことがあった。特に熱などの症状もなく、単に胸が痛むことから診断を受けたような気がしている。私はそのことを話題にしたいのではない。たまたまそのときに、診察した医者のカルテを見るチャンスがあった。普通カルテは患者には見せないだろうし、それを意図してかどうかは分からないが、横文字で書く医者が多かった。見ているほうはなんとなくその横文字をドイツ語だと無意識に感じていたような気がしているけれど、時に医者は単に日本語をローマ字で書いていたとの話を聞いたこともあるので医者なんてのはその程度のものだったのかも知れない。

 そこのところはいい。私が胸の痛みで受診したとき、医者は私のカルテに病名を日本語で書いたのを記憶している。見せてくれたような気はしていないので、恐らく机に上に置いたカルテがたまたま私の目に入ったということなのだろう。そしてその時の病名は「右胸痛」であった。たぶん私は右の胸が痛かったのだろう。だからそれが間違いだとは思わない。それでもなんだかどこかで肩透かしを食らったような気がしたのである。医師に対して今に至るも私が抱くどこか不信がないまぜになったようなイメージは、もしかしたらこの頃から形成されてきたのかも知れない。

 右胸痛についてはすっかり忘れていたのだが、最近の新聞に「4歳の子供の右足の方が左より1センチ程度長い。それためか、後ろから見ると、背骨がS字に曲がっていると言われた」との相談が載っていて(2011.3.10、朝日新聞、「どうしました」)、それに対して「(このような病気には)・・・、脊柱側湾症などがあります」との医者の回答が載せられているのを見て、50年も前の記憶と同時にへそ曲がり意識がよみがえってきたのであった。

 病名と言うのがどんな基準でつけられるのか私はまるで知らない。時に「○○氏病」などという、研究者(もしかしたらそうした症状の原因を発見した人など)の名を冠した病名も見かけるので、特に基準などないのかも知れない。だとすればこの新聞事例でも背中が曲がっているのだから「背中曲がり病」と名づけようが、「右短足病」と名づけようが私たちがとやかく言うことではないのかも知れない。
 今回の東北関東大震災にかかる医療相談でも、被災者の「腰が痛い」との相談に対して「急性腰痛症」でないかとの医師の回答が寄せられていて、「それってどんな病気なのですか」と逆質問されている事例を見た(ネット)。これなどはまさに「腰が痛い」との状況にそのまま「症」をつけて病名にした典型のように思えた。

 患者は医者の話す少ない情報の中から、少しでも自分の状態を知ろうとする。いやいや仮に病人が自らの知識では病気の内容を理解できないとしても、症状をそのまま病名にされてしまったらそこで病人の思いは閉ざされてしまうのではないだろうか。
 病名を話題にしておきながらこんな例を挙げるのは余りにもかけ離れてしまうかも知れないが、例えば小説などのタイトルに作者はとても悩むと聞いた。作品が完成してからつける場合もあると聞いた。それは数語のタイトルに己の作品の全部を凝縮しようと思うからではないだろうか。私自身だってこうした雑文の表題にだってそれなり苦労することがある。時に何度も書き換えることだってある。それはまさに「名は体をあらわす」ことをどこかで真剣に考えているからでもある。

 そうした意味で、医学界には病名をきちんと知らせようとする努力が足りないような気がしてならない。病気の数は数え切れないほど多く、症状も原因も千差万別なのかも知れない。そんな病気を的確に表すような名称を付するのは困難なのかも知れない。しかし、これまた例示としてふさわしくないかも知れないし、時にその命名に顰蹙(ひんしゅく)を買うような例もないではないけれど、無数ともいえる植物や鳥にだってそれなりきちんと名前がつけられているように思えるのである。

 まるで何の統一感もなく、症状や発見者の氏名を付することもあるなど、ただ乱雑さを示しているにしか過ぎないように感じる病気の名前には、どこか医学界の無責任さみたいなものが感じられてならない。世界の状況は知らないが、病院はもともと象牙の塔の中にあって、患者や患者を心配する者のことなど考えていないのかも知れない。専門知識は専門家に任せておけばいいのであって、素人が理解するだの調べるなどというのはおこがましいと医師たちは考えているのだろうか。

 実を言うと私は「病気」の定義を知らない。鉛筆を削っていて指先を少し切って血が出た、今朝起きたら鼻水が出ているので風邪でもひいたのだろうか、それも病気なのだろうか。「手術をしたり薬を飲んだりしなければ命に関わる」、そんな症状を病気を呼ぶのはやぶさかではないけれど、病気もまた程度の問題なのだろうか。それとも病気だけれど治療しなくても完治する程度の症状だと言うべきなのだろうか。こんな程度の病気の入り口で私は病名に混乱しているのである。そして「○○症候群」みたいに症状を四捨五入したような名づけ方にぶつかって、その混乱が一層増幅していくのである。

 そしてつい先日のことである。3.11に起きた東日本大震災で避難している人々の間で運動不足から様々な障害が発生しているとの報道があった。運動不足が体の不調につながる場合のあることはよく分かるのだが、そうした障害に対してなんと「生活不活発病」との命名がなされていたことに驚いたのである。言葉としての意味が分からないというのではない。むしろ実態を示しているとすらいえるかも知れない。

 でも私はそうした症状なり状態を果たして「・・・病」と呼んでもいいのだろうかと感じてしまったのである。へそ曲がりであることは承知の上での意見だが、もし仮に勉強しないこと(頭を使わないこと)で学力が低下したときには、それを「頭悪い病」だとか「頭使わない病」と呼んでもいいのだろうか。それともつまるところ「そもそも病気とは何か」にまで遡らないと、こうした問題の糸口はつかめないのだろうか。



                                     2011.4.2    佐々木利夫


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病気と病名