これまでに釣りをやったことがないわけではないけれど、それほど熱心ではなかった。私の釣りは仲間と出かけて共に楽しむことを否定するものではないけれど、獲物の収獲と言うか現実的な効用の方に向いていて「食べるために釣る」方向にあったように思う。だから、比較的食べることの少ないドジョウやフナと言った川魚よりも海釣りのほうに力が入っていた。しかも磯から投げるよりも比較的釣果の得られる船で海上に出る機会のほうが多かった。そんな片手間の釣りしかやったことのない男に釣りの真髄なぞ語る資格のないことは当たり前である。

 それでもたまたま見た釣りのテレビ番組には多少頭にきてしまった。釣りの番組を見たくて見たのではない。テレビでどのチャンネルに切り替えてもスポーツ番組ばかりということがあり、仕方なく教育テレビを見ることがあるみたいなことは前にもここへ書いた。そんなめぐり合わせにたまたま釣り番組がぶつかったというわけである。

 別に釣り番組が嫌いなわけでも、殺生禁止が私の身上だというわけでもない。頭にきたのは、その番組の登場人物がキャッチアンドリリースであることを標榜し、司会者かアシスタントもそのことに同調していたからである。
 キャッチアンドリリースとは釣った魚をそのまま釣り場へ放すことを言う。つまり釣り人は、「釣ったこと」を楽しむだけでその魚を再び海や川や湖に放すことから、「私は釣ることによって魚の命を奪うことはありません」、「放流することで自然に対して無色です」みたいな言い分を主張できるというわけである。

 私は放流された魚がどの程度の確率で生存できるのか、釣られたことによる影響がどの程度魚体に残るのかもしくは残らないのかなどまるで知識がない。だから知識のないままに評価するのはもしかしたらとんでもない間違いを犯すことになるかも知れない。

 それを承知でなお、私はこのキャッチアンドリリースに命を大切にしているだとか自然を守っているみたいな価値感を持たせる言い方に、人間の驕りを見るような気がしてならなかったのである。そしてそうした驕りに対して、軽蔑を超えて怒りさえ感じてしまったのである。

 生物は微生物から人間も含めた哺乳動物にいたるまで、自然淘汰なり食物連鎖によってその命を全うできていることは否定できない。そして食物連鎖とは他者の命によって自らの命を維持し子孫の命を永らえることである。だから他の命を食うことで種も含めた自らの命を支えることが「命そのもの」なのである。命を食らうことは残酷でも非情でもなく、命の本質なのである。
 中国の仙人は霞(かすみ)を食って生きていると伝えられているけれど、少なくとも地球の命は他者の命を食らうという進化の下に発生してきたのであり、逆に言うと私たちはそうした進化の過程を「命」と呼んでいるのである。しかもその命は決して動物に限るものではない。草や木や、細菌や微生物だって同様である。だからベジタリアンを名乗って肉を食わず野菜だけを食って生活しているから「私は命を大切にしている」なんぞは、まさに言葉の欺瞞なのである。

 だが人は、いつか「食うため」以外にも命をもてあそぶようになった。それを殺人と呼ぼうが、戦争と名づけようが同じである。そしてその延長に私はこのキャッチアンドリリースがつながっているように思えてならない。キャッチアンドリリースはその魚を食うのではなく生きたまま放すのだから、命とはまるで別次元の話だと割り切ってしまえるものではないと思うのである。

 例えば私はそうした釣り方が、ダイバーが海に潜って魚の群れや海草の漂いを眺めたり写真を撮って楽しんでいるのとはまるで違うのではないかと思うのである。確かに命はとらないかも知れない。だが、釣ることが確実に魚を傷つけていることに違いはない。魚が人間と同様に痛みを感じるのかどうか私は知らない。釣り針から逃げようともがいているように見えるのは、束縛から自由になろうとする本能であって痛みからの逃避ではないのかも知れない。そもそも魚に私たちが感じるような痛みの神経が存在しているのかどうかすら私は知らない。

 でも傷口から血を流しながら逃げようとしている姿に、痛みと同じ感情を抱くことはそれほど困難ではない。キャッアンドリリースの釣り針には、針先に返し(相手の肉に食い込んで抜けにくくする逆向きの小さな針先の仕掛け)がないのだとテレビは解説していた。つまり針が抜ける方向に力をいれると魚は釣り針から簡単に解放されるようになっているという意味である。
 だったら我が身をその針に突き刺してみるがいい。口の中から頬の外側に向けてずぶりと釣り針を差し込み、その針を糸の方向へぐいぐい引っ張り、しばらくしてからその針を抜いてみるがいいる。そして針が抜けたんだから針を突き刺した行為そのものが消えてしまったのだと自分に言い聞かせるがいい。そして本当にそうなのかを自身で確かめてみるがいい。

 仮にキャッチアンドリリースが魚の命を奪うことにならなかったとしても、そのことをもって私には「命をとらないのだから何をしてもいい」ことにはならないと思うのである。そしてそのことを、「魚の命を奪う釣りよりはずっとずっと高尚なのだ」と言い募るような態度は論外だと思うのである。
 しかもキャッチアンドリリースは単に人間の娯楽のための手段でしかない。例えば何かの研究のために捕獲したり観察するという目的すらなく、まさに純粋に人が楽しむだけのための手段でしかない。

 私には魚の命を奪うような、いわゆる食うために釣ることのほうがもっともっとまともではないかと思えるのである。食うこと、食うことで他者の命を奪うことは、決して残酷でも非道でもない。だがキャッチアンドリリースには、まさに人が楽しむことだけしか存在していない。だからこそその行為はとてつもなく残酷であり、その残酷さを「命を奪わないから」などというおためごかしの言葉で糊塗してほしくないのである。むしろ食うことよりももっともっと残酷な行為であることを、キャッチアンドリリースで遊ぶ者は理解してほしいと思ったのである。



                                     2011.3.3    佐々木利夫


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