福島第一原発の事故でその他の地域の検査中の原発の再稼動などに影響が出て、それに伴い節電ムードが一層高まってきている。なにしろ電力会社によってはこれから夏本番に向うピーク時の消費電力が、発電可能量の95%を超えるような綱渡りを強いられそうで、住民に節電を要請するのも止むを得ないところまで来ている。これに呼応するように、これまでも政府の肝いりでクールビズ(夏向きの軽装とでも言えばいいのだろうか)が推奨されそれに賛同したのかそれとも踊らされているのか、ノーネクタイに半そでシャツなどによる勤務を認める企業や官庁の動きが夏の商戦に影響を与えている。そうしたクールビズの薦めが今年は電力危機みたいな現象を背景に一段とヒートアップしているようだ。シャツはアロハまでOKだとか、ズボンはジーパンでも半ズボンでもかまわないとの企業まで出てきていると聞いた。

 そこで早速男性のクールビズに対する女性陣からの苦情である。つまるところクールビズはいいけれど、どうも似合わない男性が多いとの批判である。

 「ダボダボのポロシャツを着た中年男性が増えた。『日曜日のお父さん』になってしまい、女性の間で株を下げた人が相当います」
 「許せないのが『男性の短パン』だ・・・完全に遊びに行く格好で・・・”オン・オフ”の価値観が崩れている」
 「短パンもポロシャツも結構。でも、自分がどう見られるかは仕事に反映するよ。それを分かった上で自己責任でやりなさいと言いたい」
 「ノーネクタイのワイシャツから見える胸毛・・・を目にする機会は確実に増えた。『毛深さには個人差がある。だからこそ見えないように気を使って欲しい』」
 「半袖から見えるわき毛は本当に嫌」
 「更に困りものなのがTシャツ。・・・男性の乳首が存在を主張し始めるからだ」
 「・・・これに体臭を加えた『三点セット』に悩む夏だ」
                         朝日新聞、2011.8.1、「節電ビズにも礼儀あり」から引用

 言ってることが分からないではないけれど、なんだか女目線からの一方的な批判になっているような気がして、どこかしっくりこない。引用した記事によれば、クールビズは2005年の小泉政権時代に小池環境大臣が打ち出したノーネクタイのスタイルが嚆矢だとされているから、時間的にはそれほど経っているとは言いがたい。それに夏の節電や省エネに限定されたまさに期間限定の政府推奨だし、特段のヒートアップはこの夏に突然現れた現象でもあるのだから、人々の間にそれほど浸透しているとも言いがたい状況にある。だから例えば文明開化で「ちょんまげ」が断髪に変ったり、日本髪がパーマネントにそして着物が洋服に変化していったのとは違って、人々への浸透の仕方にもそれぞれに大きな違いがあると言えるだろう。

 そうした意味ではクールビズは、目的としては省エネが基本にあるけれど、運用というか国民の意識の中では一種の「お上から推奨されたファッション」としての意味が強いのかも知れない。だから「ちょんまげ」や「パーマネント」のような「文化としての変化」、「生活の中に入り込んできた変化」とは異質であるような気がしないではない。

 それでも女性だって頭髪をチリチリのパーマネントにしたり、腰巻からパンティへと服装を変えていった過程にも、同じように周囲からの批判や抵抗があったと思うのである。そして基本的には、女性がそうした変化をファッションとして受け入れた、そういうスタイルにしたいと考えたことが背景にあったと思うのである。しかもそうした変化に対する批判なり抵抗、更には受容への意気込みは、クールビズへの変化よりは比べ物にならないくらい強かったのではないかとも思っている。

 そうした世の中の思いに反してでも、女性もまたファッションの変化を自らに巻き込ませてきたのだろう。それを受容への努力と呼ぶか、はたまた批判への抵抗、それとももっと単純に「きれいになりたい衝動」と呼ぶかはともかくとしてだけれど・・・。

 だから私はまだ6〜7年しか経ていない男のクールビズへの変化、そして今年の夏なって一段とヒートアップしたかも知れない短パンへの変化に対して、女性の口からとやかく言ってほしくないと思っているのである。
 電車での化粧、撒き散らす化粧品や香水のにおい、指先だけでなく足先にまで及んでいるネイリング、茶髪・金髪はもとより紫色にまで及ぶ多様な頭髪のカラーリング、歳に似合わないミニスカート、着崩れても自分では始末できない浴衣での闊歩などなど、女性にだってファッションの変化は多様である。

 現にこの記事にだって「外資系企業に勤めるB子さんの職場は、外国人従業員が多いこともあり服装コードが驚くほどユルい。『外国人女性はタンクトップやキャミソールで胸元全開。しかもジーパンにビーチサンダルで出社してくる』という」と、そうしたスタイルには何の違和感も抱いていない事例が紹介されている。にもかかわらず、自分や女性ははいいけれど男性の短パンを許せないと言うのはあまりにも身勝手すぎるのではないだろうか。

 女は男に対して三点セットくらいしか気にならないかも知れないけれど、女性にだってそれを超える「目に余るセット」がいくらでも存在している。それをことさらに男だけに取り上げて批判するのは、女性がどこかで「私の抱いている『三点セットへの批判』は絶対に正しい」と思い込んでいる独善さが感じられてならない。

 もしかした「胸毛の見えるTシャツ」や「リラックスした日曜日のお父さんスタイル」に魅力や安らぎを感じる人だっているかも知れないではないか。そしてさらに言うなら、体臭だってその原点は恐らくオスとしてメスを惹きつけるための生理学的、遺伝的な効果を持つものだったと思えるから、それを不快と感じるかどうかはそれぞれの人によるのではないだろうか。もちろん嗅覚が発情と関係しているとするなら、男が男の体臭を嫌うことは生理学的にも理解できるような気がするから、同性からの批判意見なら少しは納得できるけれど女性からのそれは余りにも一方的ではないだろうか。

 変化が常に抵抗に出会うことは人間の歴史にとっては当たり前のことだったかも知れない。それは政治でも習慣でも学問の世界でも同じだったような気がする。変化の少ない時間の経過のなかでは、時に人は一種の安定を我が身に委ねることができる。それがいつの間にか「変化を望まない」方向へと固定化しがちである。そして変化そのものを批判し禁止し、場合によっては押さえ込むことによって現状を維持しようとする意思にまで及んでくる。

 そうした意味では変化に対して批判する行動もまた承認されるべきだろう。でもあまりにも思いつきが前面に出過ぎているかのような批判は、どこかで独善的で熟成を待たない生硬さをまともにぶつけられているようで違和感が残る。だからと言って私は、こうした批判を特集するのが間違いだと言いたいのではない。そうした意見の掲げるのはいいけれど、新聞の使命には客観性も求められているのだから、胸毛を見せている側、乳首が透けているTシャッ男性の意見なども対等に取り上げて欲しかったと思ったのである。

 毎年のことながら今年も札幌にはそれほどの酷暑は訪れなかった。だからクールビズ、ましてや今夏に流行ったようなエスカレートしたクールビズの出番はを見かけることはなかった。乳首男性への批判にそれほど乗っかるような気持ちの湧いてこなかった背景には、私の周りでは東京や埼玉のように40度に近づく猛暑がなかったこと、そして猛暑地帯のような過激とも言えるようなファッションを目にしなかったことがあるのかも知れない。
 来客もなく、来客の予定もないたった一人の事務所はまさに秘密の基地そのものである。そしてパソコンに向っている今朝の私のスタイルは、朝のシャワーを浴びて体を拭いたバスタオルを椅子の背中にかけ、実はパンツ一枚である。



                                     2011.9.1    佐々木利夫


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クールビズと男の礼儀