「本を読んでも利口にはならない」、「私が本を読んでも何の役にも立たない。人格が高級になるわけでも、教養が高まるわけでもない」(佐野洋子「問題があります」)なんてことは、言われなくても分かっているよとついつい反論したくなるけれど、こうまでざっくり言われてしまうとしょんぼりしながらも認めざるを得ないのが実感である。私の事務所は西区役所の近くにあり、そのすぐ隣に西区民センターの建物があって、その二階が図書室になっている。いわゆる図書館から見ると一ランク下になり、それなり開架式で蔵書を並べているものの本の数としてはいまいちというところだろう。

 子供の頃から本を読むのは好きだったが、昭和15年生まれの私の時代には幼稚園などなかったような気がするので(仮にあったとしても経済的に利用することなど不可能だっただろう)、いわゆる「絵本」や「読み聞かせ」などの記憶はまるでない。やはり小学校の図書室の利用が第一であり、それがそのまま中学校へと続いて言ったような気がしている。

 だからと言って、そんなに高邁な考えで読書に挑戦したわけではない。むしろ世界の名作全集であるとか、世界偉人伝みたいなものを一生懸命読んでいたような気がする。つまりロビンソンクルーソーであるとか小公子や宝島、十五少年漂流記などがすぐに思い出されるし、それに野口英世だとかキュリー夫人などの伝記が重なってくる。

 そうしたごく当たり前の小中学生が、高校生になって突然哲学だとか文学に興味を持ち始める。何がきっかけになったのかどうも思い当たる節がない。国語の先生に感化されたような思いはないし、誰か特別な作家の作品に惚れ込んだような記憶もない。それにもかかわらず太宰治、川端康成、夏目漱石・・・、なんでもかんでも手当たり次第に読み漁っていたような気がする。蟹工船などのプロレタリア文学や田山花袋などのどちらかと言えば退廃的な文学にまで興味は及んでいたから、まさに理解とか傾倒だとか心酔などを離れた手当たり次第が一番適切な表現かも知れない。

 そして読書の習慣は今でも続いている。それはまさに「手当たり次第」をそのまま踏襲していると言ってもいいだろう。大体は図書館の書架を眺めてのタイトルからの選択が多く、時に書中で引用されている著書に興味を持って探すこともある。つまりは目に付いたものを単なる興味本位で選び出すだけのことである。
 こうしたまさに濫読の方法で、冒頭に掲げた「本を読んでも利口にはならない」に反論することなど土台無理だろう。しかも読んだ後から(もしかしたら読んでいる最中からかも知れない)、読んだ内容を忘れてしまっているような気がしている。

 本の背表紙を見ながら借りる本を選択することが多い、と書いた。それは本を買うときも同じである。最近はそうでもないのだが、読書のジャンルに私はSFが好きだった。私の蔵書の1割くらいは文庫本のSFで占められていると言ってもいいくらいである。
 芥川賞の受賞作家だとか人気の高い推理作家などの本というのは、どこか読もうとする意欲が湧かなかったこともあり、またいつの間にか純文学からもいささか遠くなってきていたこともあって、図書館からは足が遠のいた時期があった。図書館にSFはほとんど見当たらなかったことも遠のいた原因の一つになっていたのかも知れない。

 それにつけても「(人間の生きている社会というのは)時間コンプレックス文明・・・要するに『人間は時間のなかを移動できない』というドクマに毒された文明だ」(山田正紀、「ゐのした時空大サーカス」P133、中央公論社)、なのかも知れないけれど、読書の世界でも時間はどんどん経過していっている。そうしたことを感じてしまうのは、読者の一人である私自身が歴史ともいえるような時間の流れの中を歩んできた結果からの当然の報いなのだろうか。10年以上も前になるだろうか、夏目漱石が中学校では古典の部類に入ると聞いたことがある。私の知る古典とは万葉集であるとか源氏物語、徒然草などの世界であり、確かに日常語とは多少かけ離れてはいたかも知れないけれど、森鴎外だって芥川龍之介だって、少なくとも古典ではなかった。

 今の時代、現代文と古典の境界がどのあたりで区切られているのかを私はきちんと理解しているわけではない。百人一首だって私たちの幼少期には普通に遊ぶ「歌留多とり」のゲーム用品の一つだった。SFが好きだと書いたけれど、私の好きな映画に「2001年宇宙の旅」がある。ネットで検索してみたところ、この作品は1968年にSF作家アーサー・C・クラークと監督スタンリー・キューブリックとの共同で製作され公開された映画だとある。公開はアメリカだから、私がスクリーンで感動したのは日本に輸入され字幕スーパーがつけられた数年後のことになるだろう。だとするなら私の感動は恐らく30歳を超えていたことになる。それにしたところで私が生まれた後に製作公開された最近の映画と言ってもいいくらいである。その映画でさえ、最近のネット動画での無料公開では「SFの古典」として紹介されていた。

 こんなことを書くのは老人の繰言みたいにとられかねないけれど、まさかに自分が読書にしろ映像にしろ、古典と呼ばれる空気の中で私自身が生活する時代がやってこようとは、想像だにしなかった。もちろん、毎年毎年、芥川賞や直木賞などの受賞作家が誕生しているのだから、それにつれて夏目漱石もまた古い時代へと押し上げられていくのは必然なのかも知れない。新しい時代の創造が、古い時代の作品を押し上げ、押し上げられた作品は忘れ去られてしまうか、もしくは古典として生き残っていくしかないことくらい私にも理解できないではない。
 NHKでも古い映像を保管管理するシステムを構築したと聞いた。時々そうした映像が「NHKアーカイブ」と題されて特集され放映されることがある。それはまさに歴史としての記録の保存であるかのように取り扱われている。そして私はそうしたアーカイブに私の生い立ちを重ねる。そして放映されている映像のほとんどに、「これは私が育ってきた時代だ」と思ってしまうのである。私の生い立ちそのものが、どこか歴史や古典に押し込まれてしまうように思えてならないのである。

 だがそうした変化が私の生きている時間の中で起きていることには、どこか違和感がある。「それだけお前が長生きしたからさ」と言われてしまえばそれまでのことかも知れないけれど、現在が過去へと変化しそれがやがて古典であるとか歴史に変っていくのには、もう少しゆっくりとした時間が必要なのではないだろうかと思ってしまうからである。

 考えてみれば私たち、特に私と同じような世代を生きてきた者にとっては、世の中を生きていくことはこれまでになかったほどの急流の中を泳ぎ切ることだったかも知れない。私たちの過ごしてきた時間は、身の回りのことごとく、例えば飯を炊くことから水汲みやテレビや洗濯などにいたるまで、生まれた頃には想像もできなかった変化の渦中にあったと言える。タイムトラベルこそ実現してはいないけれど、少なくとも私たちがSFとして抱いていた想像世界のことごとくを現代はたっぷりと超えていることは事実である。
 インターネット、薄型テレビ、携帯電話、電気自動車、電子ブック、原子力発電・・・、どんなものでもいい。現代は便利さや効率の中に埋没しようとしている。それでも人はなお、その変化を加速することの中に文明や文化、そして人類の進化を見ようとしている。

 スローライフなどの言葉が聞かれてはいるけれど、私たちはすでに後戻りのできない社会を作り上げてしまったのかも知れない。進むこと、しかも加速することの中に私たちは自分を置いている。そうした加速の中に私たちは走っているのか、それとも走らされているのか、そんな思いに駆られている。数十年前、数年前の出来事が瞬く間に歴史として評価され、古典として分類整理されていく、そんな時の流れを私たちは有り得べき社会のあり方として是認してきた。

 もちろん、そうしてきた責任はすべて私たちにある。それはそうなんだけれど、そうした是認の中に私たちは大切な何か(こうした言い方はとても卑怯だと思うけれど)を未消化のまま置き忘れてしまっているように思えてならない。立ち止まること、少し休んでみること、時に後ろを振り返ってみること、思い出の中にしばし浸ってみること、不便さの中に自分を見つめてみること・・・、そんな時間が欲しいものだと・・・、70数年の歴史を生きてきた老人は本を読みながらふと考えてしまうのである。



                                     2011.6.18    佐々木利夫


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