東日本大震災から2ヶ月を過ぎても、被災地はいまだ復興はおろか復旧までにも届かない状況が続いている。福島の原子力発電所の事故も先の見えないまま、どこか「手がつけられない」状況へと悪化しているように思えてならない。
 そんな被災地や被災者に援助の手を差し伸べたいと、寄付はもとよりボランティアも含めて著名人や一般市民からの応援が盛んである。そのことに難癖をつけようとは思わないけれど、どこか「援助する姿」に素直になれない私に気づいている。

 それは私がへそ曲がりであることが一番の理由だとは思うのだが、カントの思惑に多少影響されているのかも知れないと思うこともある。それは援助する人々の、その援助の思いの中にどこか打算と言うか自己満足というか、更には言い訳みたいな気持ちを感じてしまうからである。

 こんな場面にいきなりカントが飛び出してくるのはまさに唐突だし、私がカントを理解しているなどとは思ってもいない。高校時代、そして卒業してからの数年、哲学に凝ったのは事実ではある。だがそれは多分に哲学青年ぶることに一種の衒学的な魅力を感じただけのことであったような気がしている。一過性の熱に浮かされた脳症まがい症状は、僅かな時期を過ぎて間もなく完治してしまい、以後哲学とはまるで無縁の道を進んできたからである。それでもときおりそんなかつての熱病の余震みたいな症状が、この歳になっても微熱みたいによみがえってくるのは、まだどこかで哲学の残滓を引きずっているからなのかも知れない。そんなペダンティックな思いを込めて生齧り、誤解、勝手な解釈のままの微かな記憶から一言・・・。

 カントは、ある時点での利害、必要性、欲望、選好といった経験的理由を道徳の基準にすべきではないという。つまりそれは利害や好みを道徳の基準にしてしまうと、道徳の尊厳が台無しになると考えているからである。

 こんな思いに大震災を重ねてしまったのには、応援者の思いがどこか純粋さからとは違っているような気がしたからである。気になり始めたのは、東日本大震災の被災者を応援すると称する、とある歌手のメッセージであった。テレビで放映されたカメラに向かう歌手のメッセージの中にこんな一言があったからである。
  「私には歌うことでしか応援できません。心を込めて歌わせてもらいます。」

 最初はそんなに気にならなかったような気がする。歌手が自分の歌で被災者を慰安することだって精神的な支援になるに違いはないと思ったからである。だが間もなく「歌で応援する歌手」たちが続々と登場するようになってきた。表現は少しずつ違っていたかも知れないけれど、その多くがこのメッセージに似た発言を繰り返していた。それを聞いているうちに、私はどこかしっくり来ないものを感じてしまったのである。どこかで「嘘言ってる」、「どこかで格好つけている」、「何か自己宣伝臭い」そんな思いが募ってきたのである。
 恐らく彼らの歌う会場には、通常よりも安い入場料金が設定されていることだろう。そして会場費や諸経費を差し引いた残りが、被災地へ寄付されるのだろう。多分その諸経費の中に歌手自らに対する報酬は含まれていないだろう。それならばどこが変なのだろうか。入場した観客もコンサートを聞いて満足し、同時に入場料の中からいくばくかの寄付がされるのだから観客も歌手も、そして被災地の人々もみんなが喜ぶのだから、そのどこが変だと言うのだ。

 それはその通りである。そんな行動の中に変だと感じるのは、まさに私がへそ曲がりだからなのかも知れない。でもどこかに違和感を感じてならなかったのである。それは恐らく歌手の言った「私には歌うことでしか応援できません」の一言であり、同時にこうしたコンサートで集められた資金の一部が被災者への寄付金になることにあったのではないかと思う。

 善意の行動が仮に善意から発しているにしても、そこに少しでも欲望や満足や利害などが絡んでいるとしたら、それは純粋な意味での善意にはならないのではないか、私はそんな風に感じ、そのときにこのカントの思いを東日本大震災の被害者に対する善意に重ねてしまったのである。

 「なんにもしない」よりは「少しでも何かする」ほうがいいではないかと人は言うかも知れない。募金箱を横目に通り過ぎるよりも1円を寄付することの方が、もう一度思い直して100円、1000円を追加することの方が、より高い善意の行動なのだとする意見がまるで分からないというのではない。それはつまるところ、「だれそれは1億円を寄付した」とか「どこどこの企業はこんな寄付をした」などのニュースへとつながっていく。だからと言ってそうして集まった寄付金が被災者支援に使われるのだとすれば、その善意を否定することはないではないかと思わないではない。

 そうした支援はやがて違う形へと進化する。被災地産の野菜を多少高くても食べようではないか、当店ではお買いもの一点につき一円を被災地へ寄付していますなどなど・・・。売るほうにとっても買うほうにしても、そうした行為が善意によるものではないと言うことはできない。でもそうした善意には純粋さに翳りがあるのではないか、カントの言う道徳には適合しないのではないかとの疑問が湧いてきたのである。

 「カントに言わせれば、思いやりからなされた善行は『どんなに正しく、どんなに感じがよかろうと』道徳的な価値に欠ける。・・・もちろん彼も、思いやりを持って行動することが悪いことだと考えているわけではない。しかしカントは、他者を助けるという行為の動機(善行をなすことで喜びを感じること)と、義務の動機を区別している。そして義務の動機だけが、行動に道徳的な価値を与えると述べている。利他的な人間の思いやりは『賞賛と奨励に値するが、尊敬には値しない』。」(マイケル・サンデル、「これからの正義の話をしよう」P150、早川書房)。

 こうした思いにそのまま納得できるとは言えないのだが、でもこの大震災にかかわる諸々を見ていると、どこか善意面からだけでは割り切れないような気がするのである。ゴールデンウィークを過ぎたとたんに参加者が激減したボランティアにも同じ視点から見ることができる。参加も参加の希望もしなかった私が、少なくとも善意から発したであろうボランティア行動にこんなことを言うのはまさに独善のそしりを免れないかも知れないけれど、それでも私にはこうした行為の背景に「善意の皮に包まれた自己満足」みたいなものを感じてしまうのである。そうした善意を糊塗した行動であっても、そのゆえに誤りだと言いたいのではない。けれどもどこかでカントの言う「道徳的な価値」からは外れているように思えてならなかったのである。

 もしかしたら自己満足なしの善意など、人の世にはあり得ないのかも知れない。それは単に濃淡の差だけに過ぎず、どんな善意にだって打算や欲望の影を否定することなどできないのかも知れない。だとすればカントの言う「道徳的な価値」から発した「義務による行動」を善意の判断の基準にするなど、私の抱く幻想にしか過ぎないのだろうか。そんな見果てぬ夢を基準にして、世の中の善意の行動に首を傾げるのはやっぱどりどこかで私のへそが大きく曲がっているからなのかも知れない。



                                     2011.5.20    佐々木利夫


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大震災への援助と善意