政治討論会だとか立候補の演説など、自らの立場を国民なり公衆なりに広く伝えようとすることは日常的に見られることがらである。その「自らの立場」を個人から離れて例えば政党、例えば商社、例えば宗教、例えば職場などと言った一つの集団にまで広げてみると、私たちの世界はそうした自らの所属する集団の立場をどうしたら広く知ってもらうかに執心する場面であるとも考えられる。演説も広告も広報も、さらには宗派対立や利権を巡る争いなどにしたところで、売り上げの拡大にしろ所属する組織を拡大しようとする意図にしろ、己が所属する集団の勢力を伸張させるための意思の表れでもある。そしてそうした所属の拡大は別の捉え方をするなら所属しない者への説得であり、その説得が思うようにいかない場合には力をもってする強制になることすらあり、時にその力は暴力や戦争につながっていくことさえある。

 戦争にまで及ぶような強烈な所属意思のあらわれではないのだが、人は所属する集団によってこんなにも一つの考えに拘束されてしまうのだろうかと考えされられるような意見を読んだ。

 「敦賀市は原子力と『共存共栄』してきた街です。原発にはたしかにリスクがある。けど、我々は一定のリスクを背負った分、経済的なメリットを受けるという選択をしています。・・・敦賀市の2010年度の歳入は約564億円です。・・・うち(80億円)・・・全歳入のおよそ14%が電力関係でまかなわれています。特に市民に喜ばれているのは、電源三法のお金を使ったサービスです。・・・紙おむつなどを支給する『子育て応援品支給事業』に約600万円、お年寄りにコミュニティバスや市民温泉で使える金券を渡す『高齢者外出支援事業』に約800万円を充てました。・・・福島の自治体は、すでに脱原発の主張に変りました。それでも、敦賀市長としては原発は敦賀に必要だと言い続けます。福島の事故後、市民から『原発をより安全なものにして下さいね』という声は聞きます。けど、『原発要らないよ』『3、4号機なんて必要ない』との声は聞いていません。これが敦賀の現状なのです」(2011.10.26、朝日新聞、「地域産業」市民も理解、敦賀市長 河瀬一治)

 原発に関連した収入が市の歳入の大きな部分を占めるだろうことを理解できないではない。この記事では直接触れられてはいないけれど、恐らく職員の給与や公共施設の建設や維持などにもかなりの額が回されていることだろう。もちろん、市長の給与や議会の歳費なども含めてのことではあろうが。
 でもそうした事実を理解しつつも、80億にも及ぶ電力からの収入の大きさと市民に喜ばれているとする100万円単位で示された紙おむつや温泉サービスを並べること、しかもそのギャップのあまりの大きさをどんな風に理解すればいいのだろうかとの思いに私は混乱している。少なくとも市長の頭の中では、この紙おむつと温泉の二つと電源収入の対比させることに何の違和感もなく、原発を市民もまた理解していることの根拠として掲げることに少しも矛盾を感じていないのである。

 さらに私が気になったのは、敦賀市長の主張のまとめの部分である。彼は、市民から「原発要らない」であるとか、「新たな原子炉など必要ないなどの声は聞いていません」と断言していることである。そして原発の推進希望こそが敦賀市の現状なのだと言い切っていることである。

 私は敦賀市民の声を聞いたことはない。また、原発の賛否に対するアンケートがなされかや住民投票が行われたかなどについてもまるで知らない。だから原発に対する敦賀市民の意思もまたまるで知らない。知らないのだから、市長の意見(原発要らないとの市民の声はない)に反論するだけの根拠もまた持っていない。「それなら一言も言うな」と言われてしまえばそれまでのことである。でも市長もまた「原発反対の声は聞いていない」の根拠を記事の中で示していないのだからお互い様である。
 お互い様ではあるのだが、それでもなお私は、市長の言う「反対する声は聞いていない」は嘘だと思うのである。敦賀市民の過半数が原発に賛成しているとか、7割の市民が推進の意思を持っているなどの話ならば、それほどの違和感を抱くことはなかったと思う。

 でも「必要ないなどの意見は聞いていません」と断言してしまうのは丸っきりの嘘ではないかと思うのである。市長の立場は市民の代表である。もちろん賛否両論があった場合、結果的にどちらか一方を選択しなければならないことは起きうるだろう。それを多数決によるか、はたまた熟慮断行して少数意見に従うかなどの違いはあるにしてもである。

 それにしても「聞いていない」を「賛成100%」に置き換えて自らの立場に化体させるのは間違いである。それは市長として市民の声を聞くとの立場の放棄だからである。日本中に原発を抱えている市町村は多数存在している。その地域や周辺の多くの自治体で原発の再稼動停止や永久停止や廃炉などが、福島原発事故以後問題提起されていることはマスコミを通じて明らかである。そうした自治体の住民全部が反対しているとは思わない。ただ少なくとも反対意見がある事実くらいは認める必要があると思うのである。

 だから敦賀市の住民がいかに原発の恩恵を被っているとしても、住民の100%が賛成だなどとはとても思えないのである。賛成多数かも知れない。もしかしたら過半数を超えて70%、80%が賛成の意思を表示するかも知れない。そこのところについて私は論評するだけのデータを持っていない。それでもこれだけ日本中が放射能汚染におののいている現状にあって、そしてそのおののきが原発アレルギーだなどと批判されようとも、反対者が一人もいないなどとはとても信じられないからである。

 もし仮に市長の言う「聞いていない」のが本音だとするなら、それは市長自らが「聞こうとしていない」、「聞いても聞こえていない」、「市長の取り巻きが反対意見が届かないように防御している」からではないかと思う。恐らく市長は新聞もテレビも見ていないのかも知れない。見聞きしているなら、少なくとも反対者が皆無ではなく僅かにもしろ存在している程度の想像力くらい、抱くが当たり前だと思うのである。もしこれしきの想像力さえ持てないのだとするなら、市長は自ら望んで市民から離れた象牙の塔に閉じ込もろうとしていることになる。

 ある考えなり思いに囚われることは、場合によっては人としての当たり前のことかも知れない。最近話題のTPP(環太平洋経済連携協定・一種の広域国間の貿易協定)への交渉参加も、反対を表明する農協側は現にこれほど世間の賛否が分かれているにもかかわらず、「雇用、農業、医療の崩壊は誰の目から見ても明らかだ」(11.9、NHK朝7時のニュース)と絶叫していることからも分かる。崩壊が「誰の目から見ても明らか」なら、経済界がこぞって賛成を表明することなどないだろうし、政治家もまた交渉に参加しようとの意思すら持つことはないだろう。
 それを固執と呼んだり偏執と呼ばれようとも、その人の考えとして(どこかで他人に迷惑さえかけなければという前提みたいなものをつけたいとは思うけれど)どんな思いだって許されるのではないかと思わないではない。なんならそうした思いを、個性だとか信仰だとか主義・主張・思想などと呼んだって構わないとさえ思う。

 だから敦賀市長が「原発賛成」を唱えることそのものに異を唱えるつもりはない。でも、でもである。それにもかかわらず、彼の言い分の最後にあった「誰も反対していない」みたいな断定がどうしょうもなく気になってしまったのである。

 もしかしたらどこかで彼は「原発からの金」が原因になって、思考障害を起こしてしまっているのだろうか。「福井に匿名寄付500億円 大半は電力業界か」(2011.11.4、朝日新聞)、「東通村(の雑入) 2電力から157億円」(2011.11.6、朝日新聞)など、自治体にとっての原発は国や電力会社をバックにした打ち出の小槌になっているようだ。つまるところ、金の成る木が目の前にあるのだから反対することなど問題外との発想が、為政者の頭にはこびりついているのかも知れない。

 そしてまた原発反対にもまた金がからんでいる場合のあることを最近知った。静岡県浜岡原発は御前崎市にあり現在は一時停止中である。この再稼動に向けて隣町の牧之原市議会が永久停止すべきとの決議をしたそうである。ところがこの背景には原発によって市に入る金よりも、自動車メーカーのスズキをとったほうがメリットがあるとの思いがあるのだそうである「浜岡稼動か スズキか、交付金・雇用 割れる自治体」(2011.11.5、朝日新聞)。万事金の世の中であることを否定しようとは思わないが、賛成にも反対にも、あまりにも金の臭いが見え透いていると、どこかで冷めた思いが募ってくる。


                                     2011.11.10    佐々木利夫


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我田に拘束される思考