共通一次試験が終わり高校入試も始まった。大学入試会場に携帯電話を持ち込みネットの質問サイト利用して回答を求めたと言う、なんとも呆れたカンニング事件が発生して関係者の頭を悩ませている。本質的には理想の試験形態をどうすべきかの議論が必要なのだろうけれど、受験生(親や学校の先生など取り巻く人々を含めて)にしてみれば明日からどの大学や高校に入るかのほうが制度改革よりも大事だと思ったところでそれを批判すべきとは思わない。

 それでもこんな新聞投稿を見るとどこか気になってしまう。

 「・・・中学校で一番でも、高校で一番になれるとは限りません。無理をして実力以上の学校を選ぶか、他の学校にするか、本人にとって何が幸せなのか難しい選択です。・・・」(2011.2.7、朝日新聞、あめはれくもり、都立高校主幹教諭)。

 私はこれを読んで、どこか視点が抜けているように思えてならなかった。投稿者の言葉を「一番になれるとは限りません。(だから一番になれないような)実力以上の学校を選ぶ(のは)難しい選択です」と読めてしまうからである。私には一番になれるかなれないかを学校選択の基準にするのではなく、「自らの実力が一番でないこと」を自ら知ることこそが基本ではないかと思ったからある。

 この投稿内容が、それほど一番になることにこだわった意見ではないのではないかと考えることもできないではない。でもそうだとするなら、「一番になれるとは限らない」ことと「実力以上の高校を選ぶ」こととの整合性をどこに求めたらいいのだろうか。

 しかもこの投稿者は、「一番になれるとは限りません」と言っておきながら、この文章に続けて「卒業証書には順番は書いてありません。社会に出たら、○○高校卒業という経歴が残るだけです」とも書いている。これはまさに社会に出ても○○高校卒業と言う肩書きだけは残ること、つまり学校のランク付け(?)、評価(?)などがその卒業生には生涯ついて回ることを臆面もなく言ってのけているのと同じではないかと思ったのである。

 もちろん投稿者は「人間の価値は学力だけではありません」とか、「大事なことはその学校でどのように成長したかというプロセスです」「どんなに努力してもうまくいかないときは、自分を見つめなおす機会ととらえ、新たな目標を設定して、前進することが大切です」とも書いている。そうした意見に異論はないし、むしろ正論だとすら思う。だが投稿者の心のうちに、卒業証書という形で「○○高校卒業という経歴が残る」との思いがあるのなら、これに続けて書かれているこんな言葉のなんと空疎に感じることか。

 もちろん投稿者の内心がまるで分からないと言うのではない。現実が「経歴がものを言う社会」であることは、投稿者自身が教育関係者としてこれまでに卒業生を送り出してきた経験から分かりすぎるほど骨身に沁みているのかも知れないからである。そうした思いを分かりつつも、ならば「こんな正論みたいなことを臆面もなく書くなよ」と私は思ってしまうのである。

 「人間の価値は学力だけではありません」・・・、そんなことくらい言われなくたって分かっている、とつい反論したくなってしまう。「学校でどのように成長したかのプロセスが大事です」・・・、それだって言葉として分からないではない。だがそのプロセスは誰がどういう風に評価してくれるというのだろう。誰に認められなくてもいいじゃないか、評価は自分自身で行うものなのだから・・・、投稿者はそんな風に思い、そして言いたいのだろうか。「挫折したら新たな目標を設定し前進せよ」・・・、このことだって言葉だけにしか過ぎない。言われた方にしてみれば、そんな無神経な言い方には腹立たしさしか覚えないのではないだろうか。こんな言葉が「進学校にいた頃、保健室に相談にきた生徒」への身にしみる的確なアドバイスになっていると投稿者は本当に思っているのだろうか。

 「一番になること」は自他共に認められる客観的な評価である。採点された答案に得点が書かれ、クラスでは全員の前でそのことが知らされ、恐らく学内順位は職員室の掲示板に貼られるだろう。もしかしたら卒業式には優等生として何かの記念品さえもらえるかも知れない。そしてこれこそが目的になるのかも知れないけれど、次のステップたる大学入試の合否の得点や内申書の評価にだってつながるだろうことは誰にだって分かることである。そうした栄光ある未来が、時に思うようにいかなくなるだろうことは人生の現実である。そのことにどんな風に寄り添っていけるか、それこそが投稿者のような教育に関わっていく者に求められているのではないだろうか。

 校長、教頭くらいの区別はついても、高校の主幹教諭という立場について私はまるで知識がない。でも一般の教諭よりは「勉強を教える」という立場からは少しの離れて、少し高みから生徒を指導していくような地位にあるのではないだろうか。そんな立場にある者がこんな抽象的な言葉でしか生徒の悩みに対処できないのだとしたら、私はそうした先生の存在にどこか悲しくなってしまったのである。

 私ならそんな生徒に向ってきっとこう言うだろう。「世界平和こそ人生の目的です」・・・・ん?。



                                     2011.3.10    佐々木利夫


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