「生涯現役」という言葉がある。それほど聞き慣れた言葉ではないような気がしているので、最近の造語かも知れない。「死ぬまで世の中の役に立ってバリバリ働く」みたいな意味が込められているようで、そうした人生こそが生きていくことの崇高な目的だとするような気配が濃い。
 そうした考えを否定するつもりはない。とかく私たちは「働くこと」に特別な意味を持たせており、「働くこと」は無条件に正義だと思い込んでいるからである。私たちは一生懸命であることに一つの意義を与え、その反対である「働かないこと」に否定的、時に人生の落伍者みたいな評価すら与えようとする。だから「働かないこと」は人格の否定であり、「たるんでいる」としてその人の生き方すらも否定しようとするのが私たちの働くことに対するイメージである。

 でも本当にそうだろうかと、齢70を過ぎた老税理士はふと考える。もし「仕事すること」そのものを楽しめる状態にあるのなら、それに越したことはない。働くと楽しむが同義になれるのなら、そうした状態を「働く」ことと「余生」とに区別する必要などないからである。だが「働くこと」に「収入」が絡んでくると、どこか「楽しむ」こととは異質ではないかと思える。私には余生もまた人生の目的として十分な独立した意味を持っているのではないかと思うからである。

 つまり余生とはけっして人生の付録ではないと思うからでもある。確かに言葉として「余生」は、「余った人生」と書く。それは逆に言うと「働くことこそが人生」であり働き続けることでその人の人生は全うしたことになるとの先入観があるからではないだろうか。だからその残りを「余生」、つまりおこぼれ人生と解釈してしまうことになる。そのように理解してしまうと、人生とは働き続けることを意味し、働けなくなった人生、または働くこと以外に視点を与えた人生はまさに無意味だということになってしまう。

 だがそうした視点から少し離れてみると、働くことは生きることの目的ではなく、単なる手段に過ぎないのではないかと思えるようになってくる。何をもって「働くこと」だと定義するかは難しい問題だろう。単に生活費を稼ぐことをもって「働くことなのだ」と割り切ることも可能だろうけれど、場合によっては「働くこと」の対価としては理不尽なくらいの低賃金で働いてもなお飢えるような場合だって存在するだろうからである。また、極端に言うなら無報酬の故をもって働くことではないと位置づけることも間違いだろう。

 それでも私たちは、勤勉をもって人や人生の誠実さや指針を示す尺度なのだと思い込もうとしてきた。そのこと自体を間違いだとは思わない。でもいつしかその尺度は人生の最後までをも計測する物差しにまで私たちを脅迫し始めてきたのではないだろうか。「働くこと」の反語を「怠ける」だとか「たるむ」などと呼んで、そこに罪悪感や嫌悪感を抱かせるように仕向けられてきた。だから私は、「生涯現役」という語や「余生」という表現の中にどこか「現役であることは正義、そうでないのは間違い」みたいなイメージを抱かされてしまうのである。

 でも働くことだけが人生ではないことは、働く以外にも人生を楽しめる様々が存在していることそのものが教えてくれる。そうしたことどもを、私たちが知らないわけではない。でもそうした楽しみは、「働いた」そのあとの余暇としての位置づけにあり、「仕事なしの余暇だけ」であるとか「余暇目的とした人生」みたいな意識はどちらかと言うとタブー視されてきたように思う。

 もちろん私がそうした思いを抱く背景には、もしかしたら「長い間現役として仕事をし続けてきたその報酬としての現在の余暇」の意味があるのかも知れない。それはそうかも知れないと思わないでもない。私がこうして働くことから一歩退いて、それを余生と呼べるほどの内容を伴っているかどうかはともかく、収入を考えなくてもいいような時間を過ごせていけるのには、これまでに培ってきた仕事を中心とした私の過去が深くかかわっていることは明らかだからである。そして時に脳裏をよぎる思いにこんなのがある。もしかしたらこんな風に余生の持つイメージを擁護しようとしているのは、余生を楽しんでいる現実に罪悪感を抱いていることへの反動ではないか・・・と。

 それにしても余生を楽しむには、ほんのちょっぴりだけれど少しばかりの土壌と肥料が必要である。「余生を楽しめる自分」という存在を、それなりに支えていかなければならないからである。それは決して金銭ではない。金銭が不要だというのではない。私と言う生身の人間は、やはり食わなければならないのだし、時に酒を飲みたいと思ったり、欲しい電気製品などが出てきたりもするからである。
 こうして70歳を過ぎて溢れるような時間を自分のものにできるようになった。でも溢れるような時間と余生を楽しむこととは必ずしもイコールで結びつくものではない。時間があり、金があれば、満足した余生を送ることができるかは、実はとても難しいように思う。余生の必須に「自分のためにだけ使える時間」は必要ではあるけれど、そうした時間の存在だけで余生になるわけではない。

 私たちは「忙しい」ことを「働くこと」だと錯覚してきた。だから「忙しい」ことを自分の好きなように過ごしたい時間を不本意に他人侵害されることだと思い込み、そこからから開放されることでそうした時間を取り戻せると思うようになってきた。でも違うのである。確かに時間を取り戻すことはできるかも知れない。でもそれは単に「暇な時間」、「なんにもすることのない時間」、「無為な時間」でしかないということである。そんな時間を決して余生と呼ぶことはできない。

 「働かざる者食うべからず」だとか「無為徒食」、「稼ぐに追いつく貧乏なし」など、勤勉を称える言葉は多いけれど、その分だけ「暇」を罪悪視する風潮に私たちは追い詰められてきたように思う。だから余生にまで、「何かに夢中になれる」、「熱中できるような忙しさ」みたいな過ごし方をイメージしがちである。
 でもそんなにしゃかりきになることはない。自分の越し方の残滓をゆっくりと味わうことのなかにも、少なくとも「私自身の余生」は間違いなく存在する、そんな思いで過ごしている71歳の小さな老後である。


                                     2011.4.23    佐々木利夫


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現役と余生