思いと言葉の間には時に埋めようもない断絶の生じることがある。まあ今回のことを断絶と言うには少し大げさかも知れないけれど、つくづく言葉というのは難しいものだと感じてしまった。それは最近の東京都知事の発言についてであった。
2011.3.11午後2時46分、日本中がこの巨大地震におののいた。岩手県沖に起きたこの地震の直後に発せられたのは、大津波警報であった。そしてそれは戦後最大の自然災害と呼ばれる6,548人もの死者(2011.3.19朝日新聞)を出した。地震による建物の損壊はもとよりだが、三陸や茨城を襲った津波は10メートルを超えその余波は北海道から沖縄までに及んだ。
それにより震災地のライフラインは滅茶苦茶になり、当然のことながら食料、医薬品、ガソリン、灯油などなどの不足、欠乏はまさに生死にかかわるまでになった。そしてこの巨大地震は福島第一原発を直撃し、メルトダウンと呼ばれるまでに拡大した。原発から20キロ以内に居住する者は範囲外への退避、30キロまでは自宅での退避にまで及んだ。そうした報道はテレビを通じてまさに時々刻々、各チャンネルとも24時間を通じて映像化され、電力不足は東京での計画停電にまで発展した。
そしてそうした情報は、やがて各家庭での買い溜めを生んだ。被災地域でないにもかかわらずガソリンスタンドには車の列が延々と続き、スーパーの棚からは米もパンもトイレットペーパーや乾電池までもが空っぽになった。
そうした状況を評して石原東京都知事は「我欲」と呼び、この震災はそうした日本人に対する「天罰」だと評した。その「天罰」発言に、マスコミはおろか世論も一斉に反発した。私はこの発言そのものの報道を知らなかった。むしろ反発が起きてから都知事がこの発言について言い訳し、やがて謝罪することになってから知ったのが事実である。
そうした後からの報道を聞いて、私はこの発言が多少過激であるかも知れないけれどむしろ本質を突いているのではないかと思えたのである。それはこの発言の流れが「日本人の我欲」→「天罰」と一貫しているように思えたからである。それはこんな発言だったと言われている。
「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」(2011.3.14、朝日新聞)
その事実は早速テレビで報道された。そして夕方、友人数人と事務所での飲み会があり、そのときにこの「発言」が話題になった。友人の怒りはまさに止むところを知らなかった。いくら私が「そんな意味での発言ではないのではないか」と繰り返しても、「天罰との発言は許せない」に固執していた。そうした思いの一因には「天罰」と言う語の持つイメージが一人歩きしているような背景があるのかも知れない。
そんな時、これに対する読者の投書が新聞に載った。そこにはこんな風に書いてあった。
「恥ずべき都知事『天罰』発言。 ・・・都知事が・・・大震災に関して『日本人のアイデンティティーは我欲。津波を利用して我欲を洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思うなどと述べた。・・・耐えている被災者の姿を知って放言したのか。・・・我欲があるのは被災者ではむろんなく、天罰を受けてほしいのは高慢な発言をする石原氏の方だ・・・」、(2011.3.19朝日新聞、声、48歳女性)。
この投稿者も知事発言をきちんと捉えているにもかかわらず、その真意を見ようとはしない。知事発言の天罰発言は「日本人」に向けたものであり、決して被災した者に対してではないことはすぐに分かるはずである。それにもかかわらずこれしきの思いにも及ぶことなく、どこかで対象のすれ違いが起きているように思えてならなかった。
つまり「津波や地震は日本人の我欲に与えられた天罰だ」との意味が、いつの間にか「地震で死んだのはその人の天罰だ」、「避難所で苦労しているのは自らが招いた天罰だ」みたいな意味にすりかえられていると言うことである。
「天罰」の持つ言葉としてのイメージには強烈なものがある。あらゆる責任の所在を不明確にしたまま、「問答無用の鉄槌を下す」ような意味さえ持っている。まさに「お前が悪い」、「お前だけが悪い」、「死んだのも飢えているのも、お前自身の報いだ」との意味を持たせるような使い方も可能である。だから政治家はそうした影響力まで考えて言葉を選ぶべきだとの意味はあるかも知れない。
例えば「現代は日本人や日本そのものが我欲という重い病に冒されている。今回の地震は、そうした日本の姿を知らせる警告である」程度の表現をしたのなら誤解を招くことはなかったのかも知れない。だが思い込みに対しては、どんな反論も言い訳としか受け取られないことが多い。冷静さを失って自らの意見だけが正しいと思い込んでしまうと、人はそうした思い込みのループから抜け出せなくなるのは私自身だって日頃経験するところではある。そして「天罰発言」はその対象を違えたまま一人で歩き出してしまったと言うべきかも知れない。
私が高校を卒業して税務署に入ったばかりの頃だから20歳直前、だからもう50年以上も前のことになるが、こんなことがあった。当時の仕事は徴収係、つまり滞納された税金を集めるために滞納者宅を訪れて集金や差し押さえなどを行う部署だった。そんなある日滞納税金を領収しつつ放った私の一言に対して滞納者から叱られたことがあった。私が「まだまだこれからですよ」と言ったのに対して、相手から「苦労して納税しているのに、ご苦労様くらいの一言を言えないのか」との怒りであった。滞納していたのは相続税の分納であった。相続税は一定の要件の下で数年に亘って分割で納税することができる。そうした何回目かの分納が滞ったケースであった。
私としては「これから先も納税が続くのだから、次回以降も気を緩めないで期限内に納税してください」との意味で言ったのだが、「毎年のように支払いを続けている私の苦労に触れてしかるべきだ」と滞納者は思ったのだろう。立場が違うと言葉の意味も違って受け取られることを私はこの時に知り、今に至るまでこのことが頭の隅に残ったままになっている。
言葉は一つの手段でしかない。思いが言葉によってそのまま相手に正確に伝わる保証などどこにもない。そんなことくらい、こうして雑文を書き連ねていると分かり過ぎるくらい分かってくる。それでも人は言葉でしか思いを伝えられない動物として進化してきた。もちろんボディランゲージだとか仕草など言葉以外の伝達手段もあるだろうし、音楽や絵や映画などの芸術も同様であろう。でも言葉以上に的確に己の意思を表現できる手段を人は進化の過程で見つけることができなかった。SFの世界なら精神感応だとかテレパシーみたいな手段があるかも知れないが、少なくとも現在の科学では承認されていない。
そして今回の天罰をめぐる話題に触れて、言葉とはなんと厄介なものだろうかとふと思ったのである。
2011.3.22 佐々木利夫
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