今年も8月6日がきた。広島に原爆が投下されて66年目である。そして数日を経て長崎の8月9日がきた。今年も総理大臣も参列して式典が開かれたが、3.11の東日本大震災に伴う福島第一原発の事故が、この式典にも大きく影響を与えている。その式典における広島・長崎各市長の平和宣言や総理大臣の原発に頼ることのないエネルギー政策、日本の未来などの話を聞いた。そして叫ばれる多くの人たちの声や歌声の「平和」、「平和」の大合唱の中で、私はふとこの原子力発電と平和との対比にどこか整合がとれていないのではないかと気になってしまったのである。

 原子爆弾を投下された唯一の被爆国としての日本、そのイメージに反論はすまい。オバマ大統領が昨年宣言した核爆弾なき世界へと目指そうとする思いもまた否定はすまい。原爆許すまじと語り伝えてきたこの66年の想いもまた理解できる。

 私はこの「原爆許すまじ」を戦争の一つの象徴として捉え、それを手がかりとして核のない世界、平和な世界を目指してきたことが間違いだったとは思わない。でも、でもである。この戦争への思いの反語として、私たちは「平和」の言葉をあまりにも安易に使ってしまったのではないだろうか。
 そう感じたのは、原子力発電を核の平和利用だと誰もが信じているように思えたからである。

 むかし、本当に昔のことになるが、国語のテストの中に「反対語を書きなさい」というのがあった。単純に言うと「高い」とか「冷たい」などの課題が出され、その下のカッコの中にこの言葉と反対の意味の言葉を書きなさいというものである。私は回答欄に「低い」、「熱い」などを書く。恐らく正解で○をもらったはずである。でも私はそうした問題が出されるたびに、どこか違うのでないかと感じていた。私の意識では「高い」の反対は「低い」ではなくて「高くない」であり、「冷たい」の反対は「熱い」ではなくて「冷たくない」ではないかとの疑問がどうしても抜け切れなかったからである。問題の趣旨からして私の疑問が採点者の意に沿わないものだろうことは、幼いながら理解していた。だから決して「重い」の反対として「重くない」だとか、「遠い」の反対に「遠くない」などの回答を書くことはなかった。

 そうした「軽い」とか「近い」との答えが問題を出す先生の意図に合っているだろうくらいの学習能力はあったようで、採点に関して先生ともめたことなどなかったような気がする。それでも私はどこかで、「高い」の反対は「高くない」ことだと執拗に感じていた。そうした気持ちが今度の「原子力の平和利用」の繰り返しを聞いていて、ふとよみがえってきたのである。

 原子力が核爆弾として利用されるていることは、すでに世界的な公知の事実である。実験を別にすれば実際に使用されたのは日本に対してだけではあるけれど、世界の大国と呼ばれる多くの国が現実に核弾頭を保有しており、そうした保有に向けて追随しようとしている国もまた後を絶たない。そしてその核弾頭を武器と呼ぶことに何の疑念もないことは誰もが認めることだろう。直ちに使用するための武器かそれとも抑止力を期待しての武器かの違いは単なる言葉の遊びでしかないことくらい、どんな人にだって分かることだからである。だとすれば、核爆弾を「戦争のための核の利用」と位置づけること自体は誰も否定しないだろう。

 さてこれと対比されて言われているのが、核の平和利用である。そしてその代表として原子力発電への利用が、誰も疑わないほど絶対的な評価として私たちを取り囲んでいる。

 私は核を使うことによるどんな平和利用が存在するのだろうかと疑問に思ったのである。どこまで可能かはともかくとして、放射能によるがん治療、砂漠の緑地化、地球温暖化のコントロールなどなどに利用できたとして、それらを果たして平和利用と呼んでもいいのだろうかと思ったのである。つまり、それらは少なくとも私の中では、単なる「核の爆弾以外への利用」、「戦争以外への利用」にしか過ぎないのではないかと思えたからである。発電だってそうである。発電に核を利用したとしても、その利用を決して平和と呼ぶことはではできないのではないかと思ったのである。

 もしこうした使い方を「平和利用」と呼んでいいのなら、石油も石炭も同様に平和利用になるだろう。ガソリンを使って空母を動かし、爆撃機を飛ばし、戦車を動かし、爆薬の製造をする。そうした利用を戦争のための利用だと位置づけ、それと異なる利用を平和利用と呼んでもいいとするのなら、ガソリンを使ってマイカーや火力発電所を動かすこともまた平和利用と呼んでもいいことになってしまうからである。

 かく言う私だって、これまで「核爆弾」と「原発」に関して「戦争利用」と「平和利用」の使い分けに、何の疑問もないまま信じてきた。原子力だろうが発電された電気を利用してテレビを見ながら同じ電力を利用して作られたかも知れないビールを傾けるそのことを、あたかも平和の象徴でもあるかのように疑うことなく信じてきた。
 でも違うのである。仮に戦争と平和を対比して用いることを認めてもいい。何が平和かについて私は必ずしもきちんとした定義を示すことはできないけれど、「戦争でないこと」と「平和であること」とがまるで違うことだけははっきりと言えるのではないだろうか。戦争を起こさないことや戦争が起きていないことをもし仮に「平和」と呼んでもいいのだとしたら、世界の核弾頭保有国が当たり前のように言っている「使用することはない、核はただ持っているだけで抑止力があるのだ」とのメッセージ、そして核弾頭の保有の拡大の事実もまた、核の平和利用になってしまうのではないだろうか。

 この対比の混同が原子力の平和利用にもはっきりと現れているように思えてならない。核を利用した原子力発電は、単なる「爆弾以外への利用」にしか過ぎないのであって、けっして平和利用と呼んではいけないのである。私たちはそうした視点から原発を考えなおしていかなければならないのではないだろうか。

 「戦争」が悲惨のきわみにあることは誰もが理解している。そんなことくらい当たり前のこととして十分過ぎるほど私たちは知っている。そしてその対極にある「平和」もまた光り輝く平穏として誰の目にも証明することなしに理解されている。でもその中間の位置、いやいや「兵器としての利用」から少し離れただけでその位置を「平和」と呼んでいいはずはない。私たちは「平和」という文字に、そして平和の意味する言葉の美しさに惑わされているのではないだろうか。平和と名がついたすべてが理想なのだと頭から信じ込んではいないだうろか。「平和」という言葉の持つ呪縛から開放されることで、もう一度「平和利用とはなにか」、「原子力発電とはなにか」を私たち自身への課題として問い直してみる必要があるのではないだろうか。



                                     2011.8.11    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



平和利用という名の錯覚