こうして毎週発表している私のエッセイにも、その分類の中に「どこか変だなと感じること」と題したジャンルを設けていることもあり、そうしたエッセイの中身を読むとまさにへそ曲がりであることを自ら証明していることだと分かる。だから私自身がへそ曲がりであることは自他共に認める現実であって、そのことが明らかになったところで、更には他人からそう呼ばれることがあったところで別にショックでもなんでもない。

 さて話は変るが、時に飲み会などで遅くなることがあったとしても、毎日似たような時間に自宅に帰るのは当たり前の習慣である。帰ると背広から作務衣に着替えて(この着替えもここ10年近い習慣になっている)、洗面所で手を洗い顔を洗う。これもまた通常の習慣になっている。冬になると少し寒いこともあって着たままが多いけれど、夏は上半身裸で洗面台に向うことになる。それは顔の洗い方がどうにも下手くそで、袖口や胸元、そして床にまで水を飛び散らせる場面が多くなることも原因の一つになっている。

 洗面台には当然のことながら上半身の全部を写す鏡がついている。朝も含めて一日になんども眺める、あまり変り映えのしない上半身も含めた同じ顔がそこにある。それもまた当たり前の日常である。時にそれなり老けてきたかなと感じることはあっても、感慨など特にない日常である。鏡に写る半身像だって見慣れたものであり、いつものことである。

 ところで作務衣の下半身は腰を紐で結ぶズボン式になっている。上着を脱いで顔を洗うべく上半身裸になったズボンの結び目は、当然ながら前のほう、つまりへそ付近に位置していることになる。そしてある日なんとなく気づいたことがある。へその位置とズボンの結び目の位置が数センチも離れているのである。気ままに穿いているズボンだから、結び目が正確に正面を向いているとは限らない。しかしへそは上下の真ん中とは限らないだろうけれど少なくとも左右に関しては真ん中にあるものだと、私は無意識に感じていた。だとすればこの結び目とへそとの位置のずれは当然にズボンの穿きかた、もしかしたらひもの結び方に原因があることになる。

 そう思って改めて鏡に写る我がへそと結び目を確認してみたのである。そしてどうもその原因がズボンの穿き方や紐の結び方とは多少違っているような気がしたのである。確かに結び目が鏡に向って少し左側に寄っていることは分かった。でもそれを補正してもなお、へそとは重ならないように感じたのである。この事実は多少ショックであった。

 人の体形は基本的には左右対称であるけれど、必ずしも鏡像といえるほどシンメトリーに作られているいるものでないことくらい知らないではない。左からの方が右からよりもきれいな写真写りの顔になるとの話や、右利きの人の腕や指は左よりも発達していて筋肉質で大きいなどもよく聞く話だったからである。なんと言っても例えば心臓は多くの人が胸の左側に位置しているし、胃や肝臓などの一つしかない臓器なども体の一方のしかも左右対称でない構造になっていることなどから考えると、身体の構造が対称でないことはむしろ常識かも知れない。にもかかわらず私たちは少なくとも見かけ上、体は左右対称であることを無意識に錯覚しているように思う。

 さて私の体のへその位置が左右の真ん中からいささかずれていることは、例えば目や鼻や顔全体そして胸元へと視線をずらしていくことで間違いないように思えた。こうした現象は他人にも珍しくなく見られることなのだろうか。もしほとんどの人のへそが体の正中線上に位置しているのだとすれば、わたしのへその位置は多くの人とは違うことになる。そしてそのことを「へそ曲がり」と言うのだろうかと思ったのである。

 だがそうは言っても疑問がないわけではない。「へそ曲がり」と言うのだから、それはへそが曲がっていることを意味しているのであり、少なくとも正中線から位置が外れていることを「曲がる」とは言わないだろうと思ったのである。昔から例えば「つむじ曲がり」という表現がある。それは頭の髪の毛の生え方がつむじを中心にして左巻きか右巻きかを言ったものである。「左巻き」という同じような悪口があるから多くの人は右巻きで、左巻きの人は少ないことを意味しているのだろう。つまりつむじ曲がりとはつむじの左巻きであり、そういう人物は性質がひねくれているのだと、子供の頃は仲間への悪口として使っていたような気がする。

 つむじが左に曲がっていることで性格もひねくれたものになるのかどうかは多分無関係であり、恐らく悪口のための中傷の言葉に過ぎないのだろう。私はその真偽を確かめたいのではない。ただ「渦が左方向へと巻いている」ことだけは事実だろうと感じたのである。だとすればつむじは少なくとも左に曲がっているという事実、そしてその人をつむじ曲がりと言うことまでは事実として認めてもいいのではないかと思うのである。
 だが、「へそが曲がっている」とは果たしてどんな状態を言うのだろうか。少なくとも私は、我が身を実験台にしつつ、へその位置が正中線から僅かに外れていることは証明した。しかしずれていることと曲がっていることとは意味が違うのではないだろうか。

 つまり、へその構造にもつむじと同様に右曲がりと左曲がりがあるのかも知れないではないか。更にはへそが体から飛び出していて(つまり出べそ)その先端が左右どちらかに曲がっていることだって考えられるではないか。
 名称に「曲がり」とついているのだから、それはきっと曲がっている状態を示しているはずであり、同時に曲がるとは位置ではなくまさに形ではないかと思うのである。言葉の示す意味がへその状態と異なるような意味づけを与えられるように変化したとしても、状態と位置とは違うのではないかと、へそ曲がりを自認しつつまだ私は状態にこだわっているのである。確認してみたがへその中身というか奥の形が渦巻状になっているとは思えなかった。もちろん他人についてはまったく検証できないことは当然であり、外見から巻き方をチェックできないような状態を「へそ曲がり」と呼ぶこと自体理屈に合わないとも思った。

 同じような使い方に「へそを曲げる」というのがある。正常なへそを持っている当たり前の人間が、特定の意見なり他人に対して理屈や常識に合わないような反論や行動をするようなときに使われる言葉である。このことは正常が正常でない状態への変化を示しているのだから、正常であることが前提である。だとするなら、へその位置が特定の状況下で真ん中にあったのが左や右の方へと移動することなどあり得ないではないか。

 別にへその位置が真ん中から多少左右にぶれていたとしても、そんなに気にすることはないだろう。別にへそを見せながら街を歩くわけではないし、位置の左右によって医療の診断や懸賞の応募資格や何かの合否などになんらかの障害かあることなど聞いたこともないからである。
 それはそうなんだけれど、「へそ曲がり」とはどうしたって「へそが曲がっていること」であり、へその位置が「左右いずれかにずれている」こととは、言葉の意味からしてもまるで違うのではないかとなぜか私は頑なに、まさにへそ曲がり状態で思い込んでいる。そして作務衣のズボンの結び目の位置とへその位置とのずれが現実として目の前で確認できて以来、毎日の洗顔のたびにどうしても「我がへそ」へと視線が向いてしまう。しかも目の前の鏡のへそは私に向って居丈高に「へそ曲がり」とつぶやいているようで、そのことがどうにも癪なのである。



                                     2011.8.17    佐々木利夫


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