じゃんけんはグー、チョキ、パー三種類の組み合わせによる勝負だけれど、目的は勝つか負けるかにあるから、結局は二分の一を争う確率ゲームである。時々見ているNHKのスイエンサーという番組の中で、人間の癖や事前の作戦などでこの二分一をどうにかして自分に有利に変化させたいとするのがあって、それなり面白く見せてもらった記憶がある。大声を出すと思わず相手は「グー」を出すみたいな作戦がどこまで影響するかは、それは一つの心理学の問題としては面白いけれど、数学的には二分の一の確率はあくまでも二分の一そのものである。

 つまり、一回目のじゃんけんで勝つ確率は二分の一であり、二回続けて勝つ確率は「二分一×二分の一」で四分の一になることは数学の常識である。連続して勝つ確率はこうして2の階数乗分の1になっていくから、例えば5回連続で勝つ確率は2の5乗である32、つまり32分の一ということになる。32分の1というのは、小数で表すと0.0312になるから、現実世界ではあり得ないものと考えられるだろう。

 ところで30歳代だったろうか、心理学の通信教育を受講したことがある。数学好きが背景にあったこともあり、心理学よりも前に統計学の通信教育に手を出していたこともあって、心理学よりもデータ分析、それもχ(ギリシャ語のカイ)二乗検定だのλ(ラムダ)検定などと言った数式を使った検査やアンケートなどの数値分析の方にもっぱら興味を持った記憶がある。その分析とは統計的な手法を使った傾向の評価が目的であり、そうした中に「有意差」という用語があった。

 それは別に心理学特有なものではなく、例えば先月総理大臣になった野田内閣の世論調査での支持率であるとか、バックとなる民主党の支援している者の割合などの分析にも使われる。つまりあるデータから得られる傾向(例えば入学試験の点数と期末試験の結果とは関係があるかとか、年代や男女差によってある特定の品物の購入に差があるか、支持率が2%上がった結果は上がったと評価していいかなどなど)が、数学的に意味を持つかどうかを検証しようとするものである。

 それが当時の税務職員たる私の仕事や生活にどんな影響を与えたかは改めて書くことにしたいが、その評価つまり関係があるかないかの判定は「有意差のあるなし」によっていた。そしてその基準となる数値は「95%」であった。有意差が5%に満たない場合は有意差なし、つまり「そうした傾向があるとは言えない、評価はできない」としてその関係を却下するのである。5%と言うのは小数で表すなら0.05のことである。これを先ほどのじゃんけんにあてはめると、5回連続して勝つ確率0.0312はまさに却下、つまりあり得ない(起きない)と判断することになる。そしてその通り例えば子供の頃の自分の思い出や我が子や孫との遊びなどでも、2回や3回続けて勝つことはあっても、5回も続けざまに勝った記憶などまるでない。10回勝負で遊んだ記憶はあっても、5連勝で一気に勝負を決めた経験など皆無であり、まさに統計学の有意差は身を持って体験済みであった。

 ところが、このあり得ないことが現実に起きた、それも必ず起きることにある時突然経験したのである。現象的、統計的には起きないはずの事象が確実に起きる現実を目の前で経験したのである。それも確率0.032どころではなく、もっと小さい確率であっても確実に起きることを知らされたのである。しかも理詰めで考えるならじゃんけんで続けざまに6回でも7回でも連続で勝てるのである。例えば10回連続で勝ち続ける確率は2の10乗が1024だから、1024分の1、つまり0.000976...になる。これはまさに偶然でも起こり得ないことである。それがなんと10回どころか100回連続でも理屈上起き得る現実が目の前に出てきたのである。

 それは集団でのゲームの場で突然気づいたのであった。簡単に32人でのゲームを考えてみよう。ばらばらに32人が広場にいる。そこでのルールは任意の相手とじゃんけんをして、負けた者は勝った者の肩に手を乗せて後ろにつく、それだけである。そして先頭の者が次の先頭にいる者とじゃんけんをする。負けたグループは勝ったグループの後ろに付く、これを繰り返すのである。ゲームだから全組のじゃんけんが同時に始まって同時に終わることはないだろう。また、次のじゃんけんの相手を見つけるまでの時間もまちまちになるだろう。だから数学的に規則正しく勝敗が同間隔で割り振られることはない。でもまあそこまで厳格に考えることなしに話を進めていくことにしよう。

 最初32人はそれぞればらばらだが、一回目のじゃんけんで二人一組のグループが16組できることになる。二回目のじゃんけんでは4人のグループが8組になる。三回目には8人のグループが4組、四回目には16人の行列が2組でき、そしてそれぞれの先頭にいる者がじゃんけんをして、5回目で32人の長い行列ができてこのゲームは終わることになる。まあ、中には最終回になるまでじゃんけんをしないで逃げ続け、最後のたった一回のじゃんけんで全体の勝者となるようなずるい作戦を狙う者がいないとは限らないだろうけれど、そこまで考えることはしないことにしよう。
 これは別に行列を作っていく必要はない。じゃんけんで負けた者がその場に座り、勝った者が次の対戦相手を探して走りまわるようにルールを変更しても同じである。

 さてそこに集まった人員が32人ならじゃんけんは5回、もし1024人いたなら10回、人数さえ集められるならじゃんけんの回数はいくらでも増やすことが可能である。そうした場合、最後まで勝ち抜いた者は一度も負けることなく必ず5回なり10回、連続して勝ち続けていることになるのである。

 もちろん10回連続勝ちの確率が1024分の1だと言ったところでそれほど驚くことではないかも知れない。ネットで調べただけで自分で計算してみたわけではないけれど、宝くじの1等当選率は1000万分の1、ロト6でも600万分の1だと言われているし、しかもその確率で必ず誰かが当選しているのだから、じゃんけんの1000分の1の確率などちょろいものかも知れない。

 でもじゃんけん10回連続勝ちというのは現実的にはとても難しい。確率なのだからいつかはそうした事態が発生するだろうことを否定するわけではないけれど、現実に目にすることは困難ではないだろうか。ところが1024人集めてじゃんけん生き残りゲームを実行すると、間違いなく勝者一人が決定し、しかもその者は知識や技術とは無関係に10回連続の勝者になってしまうのである。

 だから私たちは宝くじを買い、懸賞募集に応募するのかも知れない。それでも確率的に起き得ないとされる割合と、それが必ず起きてしまう現実とのギャップは、一方で当たり前と感じ、他方どこか納得できない混乱を私に与えてしまうのである。それでも私は宝くじを買ったことはない。買わなければ当たらないことと、買っても当たらない現実的な事実、そしてきっと誰かには当たっているだろう事実も含めて、これらがいつもどこかでぶつかりあったまま私を混乱させている。


                                     2011.10.11    佐々木利夫


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