こうしてホームページにエッセイを発表し始めてから8年余、週二本の作成を目指してからでも5〜6年になる。この発表を含めるとなんと728本にもなっていて、自分でも驚いている。とは言え書いていて、そして読み返してみて、なかなか気に入った文章というのは少ないものだし、また文章を作るというのは思いのほか難しい作業だと実感もしている。
ところでホームページへの発表を世界への発信だと思い込むのはあながち間違いではない。私の発表したアドレスを誰か他人がパソコンに入力すれば、それは私の許可なく閲覧できるからである。もちろんそれは発表することそのこと自体が「どうぞご自由に」を前提としているからである。だからと言ってそんなに多くの人が私のページへと訪問してくれるわけではない。ポーページの数がどのくらいあるのか私に直接知識はないけれど、日本語のサイトに限ったところで数億になるだろうし、更にそこに含まれるページ数にいたるや無限ともいえるほどになるだろう。
そうした中から特定のページに届くためには、こちらがアドレスを他者に知らせるか、もしくはヤフーやグーグルなどの検索エンジンサイトでの引っかかりを期待するしかない。そうは言っても長く発表を続けていることで検索エンジンに引っかかるキーワードの数が増えているせいか、それとも私の意見に同調してリンクを張ってくれたり紹介してくれるような訪問者が増えてきているからなのか、少しずつアクセス数が増加してきている。
数年前まではせいぜい一ヶ月に2〜3千件程度だったのが、昨年くらいから1万数千件もアクセスがあるようになってきた。私自身が利用する検索サイトでも同様なのだが、あるキーワードを入力したからと言ってそれが目指すサイトである保証は必ずしもない。なんたって数万、数十万、場合によっては百万単位で検索サイトの情報が出てくることもあり、その中からこれと思うサイトをクリックしなければならない。しかもそのサイトが一発で目的とする情報である場合はほとんどなく、一行か二行読んで私の要求と一致せずと判断し次の検索サイトへと進むことが多い。だからそのサイトが訪問されたからと言って、そのページがきちんと読まれたことにはならない。つまり、アクセス数が閲覧者数であるとは限らないと言うことである。
そうは言っても月に1万数千件、年に15万件にもなるようなアクセス数はどこか信じられないものがあり、同時に次回の発表への背中を押してくれる力にもなっている。ただ書いていて、嘘は書かないと心に決めてはいるものの、果たして発表した作品と自分の心とが100%一致しているかと自問して見ると、どこかで忸怩たる思いのしないでもない。
もちろん自分の書いた文章なのだし、他人の文章を引用したときなどは必ず(時に不明な場合もあるが)出典を明らかにするようにしている。だから最近の中高生の宿題や大学生の論文などで言われているような「コピペ」(インターネットで検索した文章をコピーして、そのまま自分の作成している論文へペースト(,貼り付け)すること)をすることはない。そうした意味では私の文章はオリジナルなのだと自負できると信じている。でも、でもである。オリジナルであることとその内容のすべてが自分の真意かと問うてみると、どこか引っかかるものがある。
こうして数百本も文章を書き連ね、しかもその内容は小説だとか戯曲などと言ったいわゆる「創作」ではなく、一応は自分なりにエッセイと名づける分野を目指している。そうなると作られた文章は必然的に自分史の様相を呈してくることになる。
そして気づいたのである。自分史には自分の恥部は書かないのだと・・・。特別に自分を高みに置いたり優秀だと強調したりするつもりはないのだが、「都合の悪いところは触れない」ようになっているのである。
それは一面人として当然のことかも知れない。判断するのは当然自分だから「自分が許容できる範囲」であり、そのことは必然的に他者の判断とは異なるだろう。だから自分では「これこそ世の中の常識」と考えたところで、それが世間の意見である保証はない。
だが人は「恥部」も含めてのその人である。自分に内在する様々には、自分でも認めたくない部分も多々存在する。それを「悪」と呼ぼうが「エゴ」や「身勝手」と名づけようが、そんな要素も私の中にある。そんなことは私はこうしたエッセイの中に書くことはない。たとえそれらを書くような機会があっても、私はきっとそれを包装紙に包んで僅かな部分しか見えないようにするのだろう。
それはこうしたホームページでの発表という不特定多数に向けた情報の発信だからそうなるのだろうか。それとも例えば厳重に鍵を掛けて絶対他人に見られることのないようにしてある、例えば日記などでも、自らを100%さらけ出すようなことは書かないものなのだろうか。
このエッセイのタイトルは「美化する自分史」とした。それは自分史だから美化するのだろうか。それとも人はどんな場合も(自分自身にとっても)、己の人生を美化しなければ生きていけないものなのだろうか。
2011.1.29 佐々木利夫
トップページ ひとり言 気まぐれ写真館 詩のページ