元旦早々こんな話題になってしまったが、最近のテレビを見ていて気になることがある。それはこの頃やたらテレビ画面に字幕スーパーと言うかテロップが増えてきているように感じることである。私の昼間はひとりの事務所だから従業員がいるわけではないし、女房に手伝ってもらうほどの仕事もしていないので電話くらいしか話し相手がないのが現状である。したがってどちらかと言うとパソコンに向かっているか、テレビでニュースを見ている撮り溜めてあるDVDの鑑賞をすることなどが多い。

 若い頃から映画を見る機会が多かったし、それなり洋画も好きだったから字幕スーパーに違和感があったわけではない。むしろ英語はもとよりすべての外国語が不得意だった私にとって、字幕スーパーによる翻訳は映画を理解する上での不可欠な要件であり、それがなければ恐らくどんなに著名な映画であったとしても鑑賞しようなどとは思わなかっただろうからである。そうした傾向はテレビで放映される外国映画やドラマなどにも当然に引き継がれていったし、またそれが外国ニュースなどの報道番組にまで拡大していったことにも時に違和感を味わったことなどなかったと言ってもいい。

 ただそれが最近どうも気になり出してきたのである。テロップで表示される翻訳が時に意訳されたり省略されたりして、元の言葉に忠実な翻訳になっているとは限らないとの話は良く聞いている。とは言っても外国語に疎い私にしてみれば、そうした忠実さから少し離れた事実そのものを把握すること自体、最初から不可能であることは認めなければならないから、それが気になりだしたわけではない。むしろ私の感じる違和感は、こうしたテロップが「外国語の翻訳」と言うレベルを超えて、日本語の中味にまで侵食が進んでいろように思えたからである。

 テロップの拡大について私は、最初のうちは「発音の悪い者、例えば聾唖者や高齢者の発言を視聴者に正確に伝える手段」、更には「耳の聞こえない者へ会話の内容を伝達する手段」だと思っていた。放映する側にそうした意識がまるでないとは思わないけれど、毎日繰り返されるテロップを見ているうちにその辺の思いが私と少し違っているのではないかと感じられてきたのである。

 そのことに最初に気づいたのは、いわゆる「ら抜き言葉」に対する補正であった。「ら抜き言葉」とは例えば「食べられる」(食べることができるの意味)を「食べれる」と「ら」の音を抜いて表現してしまうことである。こうした表現は「食べる」以外にも見られる→見れる、着られる→着れる、起きられる→起きれる、止められる→止めれる、覚えられる→覚えれるなどなど、様々な場面で耳にすることがある。本当にこうした使い方が日本語の用法として誤っているのかどうか必ずしも異論がないわけではないらしいが、とりあえずは間違いとして扱われているのが一般的である。
 ところでテレビに写っている人が「来れる」と発言しているにもかかわらず、画面の下に流れるテロップにはなぜか「正確な日本語」である「来られる」にいつの間にか変換されているのに気づく。

 これだけではない。日本語は時に主語を省略した会話があり、むしろ省略することの多い原語だと言えるかも知れない。それでも会話が滞りなく成立しているのは、それだけ日本語に柔軟性があるからなのかも知れない。逆に省略しても特に不都合もなく会話が成立しているにもかかわらず、あえて主語を入れることで会話が不自然になることだってある。それにもかかわらずテロップには、時にその主語がカッコ内への挿入になることもあるけれどきちんと挿入されていることが多い。

 そうした補正とも言える例は、短い会話の中で主語を二度繰り返すことや、主語と述語の整合性がない場合など、日本語として「正しくない?、不自然?」なケースなどの場合には常識的に行われているように思える。
 それでも私たちはそうした欠陥(?)を日常では互いに補正し意訳しながら会話し、当たり前に情報交換をしているのである。それは別に相手の表現を誤りだと思うほどの強さを持って感じているわけではない。主語を抜かしても会話はむしろ抜かしたことに気づくことすらなく自然に流れていくのであり、その方が日本語の会話としては自然でもあるのである。

 テロップに耳の不自由な者に対する親切という意味のあることを否定するつもりはない。だとすれば、「テロップはそのためにある」ことを明確に示した上で、場合によってはテロップの表示をするかしないかの選択まで含めて利用者に提供すべきだと思うのである。現在NHKでも相撲の実況などでアナウンサーの解説などがそのままテロップとして画面に表示されるような技術を開発中だと聞く。それはそれでいいことだし、必要なことだとも思う。

 「・・・1時間に700回も字幕が流れるといわれる近頃の地上波のニュース番組・・・」(2010.12.27、朝日新聞、「BSデジタル 狙いは中高年」より)と言われるまでにテロップの氾濫している現状は、私には「耳の不自由な方へのサービス」の意味や範囲を超えているように思えてならない。
 テレビ局といえども正しい日本語を使用すべく努力することに異論はないし、必要だとも思っている。むしろ最近のアナウンサーの中には、間違った日本語を堂々と使っているような例もあるから、きちんと教えるべきだとも思っている。

 しかし、このテロップの氾濫にはどこか違和感が残る。放送する側が意識的に「ら抜き言葉は誤りですからテロップで補正します」であるとか、「誤った日本語が使われていますので、正しい用法に補正します」みたいな意識が余りにも見え見えであるように感じる。私にはそれがたとえ誤った用法であったとしても、「話してもいない言葉を挿入したり」、「主語が抜けているので追加しました」、「余計な言葉が入っていたので削りました」などの行為は許されないのではないかと思えてならない。

 テロップはまさに「余計なお世話」がどんどん入り込んでくる場であり、時に放送局が「私たちが正しい日本語を教えます」との鼻持ちならない正義をとこかで我が物顔で強要しているように思えてならないのである。



                                     2011.1.1    佐々木利夫


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