3.11の東日本大震災は死者行方不明合わせて2万7千人を超える大災害になり、加えてその震災に伴う福島第一原発の事故が見通しがつかないことともあいまって、日本中を意気消沈の只中に追い込んでいる。地震、津波、放射能・・・、避難者を含めて東北から関東までやり場のない現実が続いており、巨大地震には当然との解説もあるけれど打ち続く余震がそれに拍車をかけている。
さてこの地震は、つい数ヶ月前のニュージーランド地震や中国四川省の地震などもあって世界の注目を浴び、それに原発事故が追い討ちをかけた。
ところでこの大震災に日本人がどう向き合ったかについて、世界中が日本人の対応を賞賛した。賞賛どころではなく、むしろ絶賛とも言うべき評価であった。それは、これだけの被害を受けながら日本人があまりにも冷静であったことである。世界にはこうした大災害に伴って、暴動や略奪、時には放火や殺人なども起き、更には迅速な救済に遅れがちな政府や行政への不満が暴力を伴う抗議集会などへと発展するケースが多いからである。
パンの値段が上がる、ガソリンが買えない、給料や年金が減る、景気が悪い・・・、要求や不満は様々だし中には国の支配そのものに対する反発すらある。そしてそれが目的でないことや目的達成手段とは無関係に思えるにもかかわらず、デパートやスーパーが放火され、電気店からテレビや冷蔵庫などが暴徒によって略奪されるような映像は、それほど珍しくなく世界のニュースで見ることができる。
「それに対し日本人はすごい」と世界は評価する。辛抱強く困難に耐え、要求はつつましやかで控えめであり、避難の指示にはきちんと従って決して暴力的になることはない。そんな日本人の姿は、世界のマスコミに稀有に見えるらしい。
そうした日本人像を日本のマスコミも好意的に捉え、日本民族の外国マスコミの評価に胸を張っている。私もそうした報道に、どこか同じ日本人として誇らしげな思いを抱いていたことは事実である。日清日露の戦争や日中戦争、そして第二次世界大戦へと続いてきた世界における日本人像は決して穏やかなものではなかった。そして戦後、トランジスターラジオやテレビ、そして自動車などなど、日本の復興は世界の誰の目にも明らかであったけれど、どこかそれは技術力での評価であって日本人の持つ民族意識などを伝えるものではなかった。
GNPがアメリカに次いで世界第二位になっても、それはどこか好戦的な残酷さをそのまま残した成金日本でしかなく、「武器なんぞ持たせたら何をするか分からない国」であることは世界の認めるところでもあった。
それがこの地震原発被害の報道で、大きく塗り替えられるまでに知られるところとなった。「日本人はこんなに優しいんだ」、「日本民族は決して争いを好む人種ではないんだ」、「日本はこんなにも平穏や平和を心から望んでいるんだ」・・・。今回の災害に向き合っている日本人の姿は、そうした日本人の心を世界の多くの人に伝えることになったと思う。
そのことはいい。むしろ誇らしげに思ったくらいである。でも本当にそうなのだろうか、それでいいのだろうかとの思いがどこからか私のうちに湧いてくる。
もちろん略奪や暴行、そしてなりふり構わぬ暴力を認めるべきだとは思わない。盗みに入り、放火して逃げる暴徒の姿を肯定しようとは思わない。でもどこかで日本人の従順さには、自己主張のなさがそのまま示されているように思えてならない。主張しないことは思っていないことと同じではないかと、ふと感じたのである。
どんな行動までが主張として妥当するか、非暴力とはどこまでが限度なのか、その境界を見極めることはとても難しいことだろう。それでも「言われたことに黙って従う」ことだけが正義ではないように思う。
私たちは長い間、「長いものに巻かれろ」に余りにも固執してきた。その代償として確かに「安寧」や「平穏」を与えられたかに見えたけれど、そうした報酬は為政者や権力者の言いなりになることによって与えられた「おこぼれ」にしか過ぎなかったのではないだろうか。
3.11の東日本大震災によって現在でも19万人もの避難者が全国に散らばっているという。震災から40日を経ているにもかかわらず、なかなか復興の道筋すら見えてこない。避難所の住民に向けられたテレビカメラは、津波に家を流され肉親を亡くした人々が一見穏やかに過ごしている風景を伝えている。それはまさに従順そのものの風景である。でも私はどこかで、「もっと怒ってもいいのではないか」と言いたいような気がしてならないのである。
こんな気持ちにさせられたのは、新聞こんな投書が載ったからである。
『反原発デモ なぜ報じないのか』 東京の高円寺で10日、反原発を訴えるデモ行進があり、主催者側発表で1万5千人もの参加者があったそうだ。しかし、私が見た限りでは、新聞もテレビもこれを報じていなかった。私は動画サイトでデモの様子を見たが、・・・原発問題への新しい波を感じさせるデモだった。にもかかわらず、マスコミが大きく取り上げなかったのはなぜなのだろうか。・・・(2011.4.20 朝日新聞、声、61歳高校教員)
テレビにつききっきりで目を凝らしているわけではないから、私の知らないことが報道されていないことの証明にはならないけれど、このデモに関する報道を私は一度も見たことがなかった。どうしてこうした行動をマスコミは伝えることを怠ったのだろうかと私は感じたのである。そして避難民の態度も含めて、国民はもっと怒りを具体的な行動として示してもいいのではないか、もしかしたらマスコミはそうした行動をどこかで意図的に遮断しているのではないだろうかと思ったのである。
外国のマスコミが、今回の大震災における日本人の対応振りを驚きの目で見ているという。そうした諸外国の報道を、日本のマスコミや識者は日本人への賞賛として捉えている。でも本当にそうなのだろうか。私たちは翻訳された報道でしかそれを見ることはできないし、それを解説している報道もまた同様である。
賞賛なのか驚きなのか、外国語を知らず外国人の行動や習慣なども知らない私にその区別はまるでつかない。もしかしたら、そうした従順さへの驚きは、軽蔑の意味を含んでいるのではないかと思うことすらある。私たちは「言うべき時にも物言わぬ日本人」として世界に理解されているのではないだろうかと感じ、そしてそうした世界の抱く驚きを、私たちは単純に「賞賛されている」と錯覚しているだけに過ぎないのではないだろうか。
それとも私たち日本人は、長いものには決して逆らうことなどしないようにすっかり飼い慣らされてしまっているのだろうか。それとも、それとも、私たちは怒りを忘れるほどあらゆることに無感動になってしまっているのだろうか。募金箱に硬貨を投げ入れ、収益の一部を寄付しますという標語につられてライブに行き、東北産の野菜や産品を買うことで被災地を支援していると思い込む、そうした行動ですっかり満足してしまっているように見える現状は、どこか「私が被災者でなくて良かった」みたいな他人事感を抱いているように思えてならない。募金がどんなに集まっても、テレビカメラに向かっていくら同情や悲しみの言葉が語られても、どこか一過性で切実感に欠けているように感じられてならない。それは己が被災者でないことからくる当然の感情なのかも知れないけれど、私自身を含めてこの身に感じる隔靴掻痒は、どこか落ち着かない。
2011.4.20 佐々木利夫
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