広辞苑も国語辞書も英和辞典、和英辞典などなど、辞典だとか事典と名のつく辞書はいくつも書棚に転がっている。ざっと眺めただけで、精神医学辞典、心理学辞典、大字典、音楽中辞典、古語辞典、法律経済大辞典、新法律学辞典、定理公式証明辞典、外来語辞典、漢字熟語辞典、国語辞典、パソコン新語辞典などなど、我が書棚には辞典類が溢れている。そしてもっと言うなら、数十冊に及ぶであろう百科辞典を蔵書として我が支配下に置くことは、実現こそしなかったものの長く抱き続けてきた私の一つの夢であった。
それがパソコンが普及してから、いわゆる紙の辞書は衰退の一途を辿るようになってきた。パソコンも最初のうちはCD−ROMなどの媒体に記録されたものを画面に表示するだけのものだった。だから外来語辞典やコンピュータ用語辞典などのように新語の追加や内容の変更などが激しい情報は、改訂版つまり新しいCDの購入に頼るしかなかった。しかしパソコンの発展には恐るべきものがある。インターネットの普及は、最新情報が手に入る状況をあらゆる人に保証するようになってきたからである。しかもインターネットの海は、少なくとも私たちのような素人に言わせるなら無限の広さを持っている。いくらでも吸い込む能力をもちながらも、検索する方法さえ的確ならそうした無限の中から欲しい情報を瞬時に探し当てることができるようになってきているからである。
そしてパソコンの発展は装置の小型化へも急速に浸透していった。スマートフォンと呼ばれるような機種は、すでに携帯電話機能に加えてインターネットを利用したパソコンの機能まで持つようになってきた。しかもメモリーが小型で大容量になってきたと言うに止まらず、アクセスのスピード化(情報処理の速度)も同時に進化していったから、例えば手のひらの半分くらいしかない装置にCD何百枚だの数千曲だのと言った音楽まで保存できるようになってきている。
パソコンは言ってみればメモリーと処理速度が命である。もちろんマシンを動かすためのソフトウェアなりアプリケーションの存在が前提にはなるけれど、保存してある情報を即座に取り出せることはまさにパソコンの本質でもある。百科辞典が数十冊にも及ぶということは、それだけ膨大な情報を印刷物、つまり活字や写真や表などの集合体として書籍の中に収容してあることを意味している。そして私たちはそうした膨大な情報の中から、目的とする必要なテーマを選んで書棚に並んでいる辞書の一冊に手を延ばすのである。
文字情報や写真などをデジタル(いわゆる数値として)で保存しておくのは、コンピュータのもっとも得意とする分野である。デジタル化は文字や映像だけでなく音声の分野にまで広がっているから、こうした電子化された情報は音声付の情報としての利用もできることになる。著作権などの問題をクリアーできれば、バッハのシャコンヌの作曲された時代の情報や自筆の楽譜(実際にあるのかどうか分からないけれど)などを目にしながら、同時にその自分の好きな演奏者による演奏を聴くこともできるのである。
さてこうしたデジタル化の動きは、CD−ROMなどによって手持ちのマシンの中へ情報を組み込む方式から別のレベルへと飛躍していくことになる。それは情報の共有化というのか、一つの巨大なメモリーに組み込まれた情報を多数の人たちがそれぞれに接触できるようになってきたことである。つまり誰かが単独または共同で百科事典の情報を全部デジタル化してメモリーに保存し、それを多数人に公開する方式を提供できるようになってきたと言うことである。そして最近では「クラウドコンピューティング」と呼ばれる技術が広がってきている。クラウドとは利用者が用意するのは最低限度の接続環境(パソコンや携帯端末とインターネットとの接続システム)のみであり、膨大な情報はもとよりハードやソフトまでもが向こう持ちの形態をとる。
インターネットも膨大な情報をプロバイダーの所有するサーバーに保存管理しているから、そうした意味ではクラウド型みたいなものではあるが、情報の更新も含めてその管理がしっかりしていれば、常に新しい情報が手に入ることになる。そうした情報の入力や更新などの管理を誰がどんな形でしているのか分からないけれど、基本的には私たちはプロバイダーに接続料金を支払うことで見かけ上無料かつ無制限な量の情報の提供を受けることができるようになっている。
つまり私たちは、提供されている情報がどこまで信頼に足りるかどうかはともかくとして、百科事典を凌ぐ情報をこのパソコンなり携帯端末というマシンを操作することで居ながらにして入手できるようになったのである。そしてそうした情報はその信頼性を、利益を享受する者自らが判断しなければならないという責務を負ってはいるけれど、いとも簡単に手に入ることができるようになった。調べたい語句なり熟語なり記号などを、空白の検索窓口に入力するだけで、それに関する情報があたかもウンカのごとくに湧いてくるのである。
そうした現象はまさに重宝である。そうした方法で情報を入手できるなら、百科事典を買う必要もそれを書棚に陳列する必要もなくなった。重い一冊を書棚から持ち出して、必要な情報を記載してあるページを繰る労力は必要なくなった。キーボードに向って文字を入力し、最後に「検索」の指示を与えるだけで、答えはたちどころに画面に現れてくる。なんなら外国語の翻訳だって、どこまで適正な訳になっているかは確かめる実力さえ持ち合わせていない私ではあるけれど、少なくとも私自身が和英や仏和などの辞書をひねくりまわすよりは的確な回答を与えてくれる。
私は今、そうした文明の利器たるパソコンの前に座っている。ここからは百科辞典など及びもつかないほどの情報の倉庫へとつながっている。そのことは利用している私が十分理解している。でもその代わり、私からはいつの間にか「百科事典が欲しい」との、あの子供の頃から抱いていた憧れにも似た夢やわくわくした思いがすっかり消えてしまっていることに気づく。最初に自分のものとなった「広辞苑」の、あの誇らしい重さはどこに行ってしまったのだろうか。大百科と題された一冊の分厚い辞典に重ねた数十冊もの百科辞典のイメージはどこへ消えてしまったのだろうか。引き方も十分に分からず目的地に辿りつけないままその所在にうろうろしていたあの厚紙のケースに入った漢和辞典の紙とインクの臭いは一体どこへ行ってしまったのだろうか。
電子辞書はメモリーに数十冊にも及ぶ情報を内蔵した専用の手帳サイズのマシンから、いつしかインターネット接続による検索へと進化していった。それは小型化・携帯化と呼ぶことすらおこがましいほどの便利さへと私たちを誘うことになった。それが果たして私たちが本当に望んでいたことなのだろうかと、ふと感ずることがある。百科辞典もインターネット検索も知識を得る手段であることに違いはない。ならば便利であることや安価であることに異を唱えることなど筋違いだと言われてしまえば反論は難しい。それでも私はどこか気になる。
知識を得ることそのものが、かつては私たちの夢だったのではないだろうか。そしてそうした知識を蓄えてある書物もまた、書物であることの中にそうした夢を含ませていたような気がする。それはパピルスや粘土板に文字を記した太古の時代からの変遷の一つにしか過ぎないのだと言われるならその通りかも知れない。変化の一部分を切り取って、その変化のゆえに変化そのものを疑問視するのは老いてゆく者の過去へのしがみつきなのだろうか。
私が生きてきたこの時代は余りにも変化が激しすぎたのかも知れない。昭和はすでに歴史になっているけれど、私の生まれた昭和15年(1940)は余りにも遠く感じられる。空腹、貸本、竹馬、水汲み、ポットン式便所、オート三輪車、真空管のラジオ・・・、脈絡もなく思い出す私の子供の頃の思い出は、現代の便利さとは正反対にあった。子供の夢には様々なものがあったけれと、その中でも「百科辞典」はどこか光り輝いていた。それは見果てぬ夢ではなく、努力すれば確実に手に入れられる夢であった。その夢を電子辞書やインターネットがあっさりと消してしまったように思えてならない。ネットの海につながっていながら、私には光り輝くあの百科辞典を感じることができないからである。電子書籍が普及しつつある。小説も詩も、紙ではなく画面で読む時代がそこまで来ている。
そして私は、紙でないものに向って、こうしてキーボードから活字を打ち込んでいる。この文字はデジタルである。アップロードの命令一過、この文章はそのままどこかのサーバーに放り込まれ、見知らぬ空間へと飛び散っていく。
2011.6.2 佐々木利夫
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