遠い遠い昔の話である。私が夕張という炭鉱町で炭鉱夫の息子として育ったことは何度も触れたことがある。私はその夕張で高校卒業の18歳までを過ごし、税務職員としての道を選んだ。そんな夕張での私の子供の頃の話である。夕張は沢の町である。沢とはその地が山と山の間であることを意味し、その高低差が大きく急峻になっていれば谷と呼ばれるのだろうが、そこまでの険しさはなかったのでやっぱり「沢の町」であった。
 造山運動によるなど沢のでき方にも色々あるかも知れないけれど、一般的には川の流れが地面を削ることによって作られることが多いように思う。そうした例にもれず、夕張もまた山間の川に沿った細長い街である。時に町が横に広がる場合もあるけれど、それもまた別の川沿い、つまり魚の骨のように支流に発展した町ということである。

 私が育ったのは夕張にいくつもあった石炭の掘削口の一つで、平和坑と呼ばれる作業区に従事する炭鉱夫が集団で居住していた若菜と言う地名の集落であった。山と川に挟まれた狭い地区であることは言うまでもないのだが、生まれて長くそこに住んでいていわゆる平野だの盆地だのと言った環境を知らない者にとっては、そこが「沢」であるとの認識はまるでなかった。坂が多いとは言え、人が住んでいる地域の横幅だって1キロや2キロはあったから、子供にとってその地が平野とそれほどの違いはなかった。

 さて我が家はその若菜の小さな商店街の裏手にあり、そこから200メートルほどだらだらと坂を下ったところに大きな川が流れていた。幅がせいぜい20〜30メートルくらいで小川よりは多少大きい程度だったから大きな川と言うのは大げさかも知れない。
 その川の名は「志幌加別川(シホロカベツガワ)」が正式名称らしかったが、夕張に住む誰もがその名で呼ぶことなどまるでなかったような気がする。その流れは夕張の北部地域を源流とし、夕張で一番大きかった夕張坑と名づけられた坑口を通過して私の住む若菜近くを縦断し、遠く南の夕張川へと注いでいた。

 私たちはその川の名を「黒川(くろかわ)」と呼んでいた。夕張川は北海道でも名のある大河だが、夕張の名はついているものの広大な夕張地区の南端をかすめるように通ることもあって住民にはそれほど知られてはいない。そんなこんなでこのシホロカベツ川が多くの住民にとってなじみのある川だったこともあり、折に触れて話題になることが多かった。

 私にとってもその川は単に住宅の近くと言うにとどまらず、小学校の裏手を流れていたし、中学校へはその川にかかる橋を渡り、高校にはその川に沿った道路を小一時間もかけて歩いて通っていたからである。なんたって、沢の町はその中央を川が流れており、道もまたその川に沿って作られているからである。

 ではその川をどうして黒川と呼んでいたのか、それは流れが真っ黒だったからである。大雨や洪水のときに流れが濁って時々黒く見えると言うのではない。一日24時間、それも年がら年中、私が生まれて高校を卒業し時に両親を夕張に尋ねるなど数十年を経ても真っ黒のままだったのである。どうしてか、それは炭鉱が掘った石炭をその川の水で洗っていたからである。

 石炭は地中から掘り出しただけでは商品にはならない。石炭の街に18歳までを過ごし、父がその仕事に従事していたにもかかわらずそうした商品化の流れを知らないのは不勉強のそしりを免れないだろうが、その乏しい知識から想像してみるとこんな流れである。
 石炭は基本的には炭層に沿って掘り出すから、その時点ですでに炭質などの一応の選別ができていると言えるかも知れない。それでも発破(一種の掘削用の爆薬)や削岩機などで集めた石炭は、売り物にならない岩との混合物である。それを選炭場で分別する。価値のない岩は「ずり」と呼ばれて捨てられるが、長い年月は堆積された「ずり」を山に変える。これが「ずり山」である。ずり山にはやがて野草が生え出し、僅かに残った石炭が岩の積み重ねによって自然発火し、ぶすぶすとあちこちからくすぶりだすようになる。これが炭鉱町の風景である。

 一方選ばれた石炭は、川の水を使って付着している炭塵を洗い流し、それぞれの品質によって従業員向けの無料の燃料用、工場や家庭向けの燃料用、工業用の燃料、コークス原料、その他化学薬品原料などに区分され、蒸気機関車に引かれた貨物列車や馬車などで目的地に運ばれることになる。
 この洗い流された炭塵がシホロカベツ川の流れを真っ黒に変えるのである。沢の町とは川の流れに沿った町である。一本しかなかった川は上流からいくつもの坑口で掘られた石炭を洗いながら下流へと進んでいく。そして炭鉱は24時間稼動である。一番方、二番方、三番方と呼ばれる三交代で、正月や特別な祭日などを除いてほとんど休みなく動き続けていた。石油資源に乏しい我が国にとって、当時の石炭は必須の資源であった。水俣、神通川などの公害を軽視する姿勢に見られるほどにも資源の確保は国策でもあり、そのための九州から北海道まで、鉄や銅などの精錬は日本の成長であり、同時にそのための石炭の需要には計り知れないものがあった。工場の煙突から上る黒い煙は地域繁栄の象徴であり、同時に日本の栄華を示すものでもあったのである。

 だからと言ってそんな黒川にだって流れ込む小さな川がなかったわけではない。そしてそうした小川がどじょうやフナが釣れるような澄んだ流れであることも知っていた。それでも、例えストライキ(労働者の実力行使による工場休止)などにより数日にわたって石炭の洗浄作業が中断したところで、川の色が薄くなったり澄んだりするようなことはなかった。時にその川で友達同士で泳ぐこともあったけれど、黒川はいつでも黒かったのである。だから私にとっての川というのは、少なくともシホロカベツ川に限っては私の生まれる前から黒かったのである。

 (そして今)、エネルギーは石炭から石油へと急激に変化し、日本中から炭鉱が消えた。石炭の需要は今やせいぜいが火力発電に使用する程度であり、その発電用でさえもオーストラリアからの輸入などに頼り国内炭の需要はない。夕張も炭都凋落は例外ではなく、今や石炭歴史村としての記念館でしか石炭を知ることはできなくなった。
 10数年前に夕張を訪ねたことがある。石炭のなくなった夕張のシホロカベツ川は、見事なまでに清流と化していた。それを清流と呼ぶのがはばかられるほどにも透明に変化していた。その流れを見て、私には黒川がすっかり変ってしまったことにどこか違和感が残って仕方なかった。川が川でなくなった、そんな思いさえ抱かされてしまったのである。そうした清冽な流れに、石炭が夕張から完全に消えてしまった歴史をまざまざと感じてしまったのである。



                                     2011.1.6    佐々木利夫


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黒い川の流れ