人をグループ化して、その中で性格などを論じる風習はそんなに珍しいことではない。大はアメリカ人はこうでドイツ人はこうだとか、果てはユダヤ人はどうのこうのなど人種によって思想信条のみならず性格や物事の考え方まで決め込んでしまうようなことから、小は「あの一家はそうなんだ、あの地方の者は・・・」などと了解してしまうことなどまで含めて、けっこう日常的に存在している。

 そうした断定は、こちらの思惑と違う考え方をする者に対して一刀両断に答えを出してしまえるから楽ではある。なぜ理解してくれないのだろうかだとか、どうしてこんな単純なことが分からないのだろうかなどと悩むこともなく、「あの人は○○(人種、男女、年齢、地域などによる一方的かつ独断的なグループ化)なんだから・・・」とすべての原因をそこに押し込めてしまえるので、そのことに対する分析はおろか説得や説明をしようとする努力まで含めて最初から放棄してしまえるから非常にらくちんである。

 でもどこまでそうしたグループ分けが妥当するのだろうか、そしてそうした分類iにはどこまで根拠があるのだろうか、そんなことが最近気になってきた。それは東日本大震災の被災者に向っての、いわゆる「がんばれコール」の中に、パターンのように同じような言葉が何度も聞かれたからである。そしてそんなことを繰り返し言われたとき、言われた本人は本当に喜んでいるのだろうかと、つい疑問を感じてしまったからである。それは「東北の人は・・・」で始まるこんな一言である。

 「・・・東北の皆さんはみんな我慢強く、ねばり強い。それだけじゃなくて、実は底抜けに明るいユーモアの心もお持ちなんです。大変でしょうが、持ち前のたくましさでシブトク立ち直っていただきたいと祈っております」(朝日新聞、2011.4.24、『シブトク立ち直って』(小沢正一)

 こうした言葉はこの人だけからのメッセージではない。歌手や俳優はもとより、著名な経済人からの励ましの言葉にも、その他名もない多数の応援者からのメッセージにも幾度となく繰り返されている。発言者に悪意など片鱗もない純粋の応援歌であろうことにいささかの疑念もない。だから最初のうちはなんとなく聞き流していて、特別に違和感を覚えることはなかった。でも「東北の人は我慢強い」だの、「辛抱強い」、「優しい」などの言葉を繰り返し繰り返し聞かされているうちに、どこかそれが耳障りになってきたのである。私は北海道生まれで東北人ではないから、こうした励ましの言葉の対象には含まれない。それでもこうした言葉には、どこかで東北生まれの人たちを馬鹿にしているのではないかとの気持ちを抱かされてしまったのである。

 こうした「○○生まれの人たちは××だから・・・」というような人々を一くくりに分類して評価するような表現は、いったい何を意味しているのだろうか。まるで東北の人たちは、東北で生まれた(もしくは生活している)というだけの理由で、大人も子供も男も女も、全部が全部「辛抱強く我慢強い」ことになってしまうのである。そして言葉を代えるなら、多少つらいことがあったところで東北の人たちは、こぞってそうしたつらさに不平を漏らすなく耐え忍ぶことができると言っているのである。

 それも一つの応援の形なのだとの気持ちが分からないではない。でも私にはそうした人を一くくりにしてしまうイメージが、どこか不平や不満を身の内に押さえ込んだままの状態を、あたかもその状態が美談として固定化されてしまうように思えてならない。我慢することがどんな場合にも美徳であるとは限らないのではないか、私にはそんな風に思えてならなかったからある。そうした辛抱強さなどを常に美談にしてしまったら、そうした評価は不平不満を言わないこと、そしてつらいことをつらいと言わないこと、どんなに口惜しくてもそれを口にしてはいけないことなどへと、どんどんエスカレートしていってしまうのではないだろうかと思うからである。

 時に自分の中でひっそりと耐えようとする思いまで否定しようとは思わない。だからと言って他者から「お前は我慢強い」などと賞賛されるのは、かえって余計なお世話だと思うのである。そんな言葉は、弱音を吐こうとしている自分の弱い心を、壊れるまで押さえつけることになってしまうと思うからである。

 大震災の被災者の姿は区々である。死者や行方不明者が2万数千人と言われているけれど、2万数千と言う数は災害の大きさを示すだけのものではない。たとえば死の、たとえば行方不明の意味するものはつまるところ一人に帰すると思うのである。一人の死とその死に向き合わなければならない家族や友人や知人、それが異なる思いの積み重ねが2万数千の何倍になるということである。そんな様々な向き合い方に、人はどこまで強くなれると言うのだろうか。そういう多くの人たちに向って、私たちはどこまで「あなたたちは我慢強い」、「壊れるまで辛抱してほしい」、「なぜならあなたたちは東北人なのだから」、「だから頑張れ」と言い続けていけるのだろうか。そうしたメッセージが被災者に対する励ましや応援歌になるのだと、本当に信じていいのだろうか。

 そしてもう一つ気になることがある。それはこうした「東北人は・・・・」みたいな思いに、多くの人が信じ込まされ流されてしまっていることである。震災に原発事故まで重なって、電力不足は工場や家庭まで巻き込んだ計画停電にまで発展した。まさに日本中「祭りどころではない」気持ちで一杯である。そんな時に、今年のプロ野球の開催をどうするかが話題になった。こんな時にナイターで照明をつけ、球場を動かすのはいかがなものかとの話題が世間を駆け回った。まさに「お祭りなどとんでもない」の自粛ムードが世上を席巻した。
 それが、どんな契機からだったのだろうか。一転して自粛は被災地の復興や日本経済の発展にマイナスではないか、もつと消費を拡大すべきではないかとの思いへと変化した。

 その変化は劇的といえるほどにも鮮やかであった。私はドンちゃん騒ぎは控えて、被災地の人たちに同情しようと思うことも、地産地消や地酒の消費で災害地の復興に役立てるために花見をやったり旅行で訪ねるようなことも、特に異論はない。それぞれの思いに賛同できるし、自分の思いに従って人は行動していいのだと思うからである。でも世の中の全部の流れが、ある日を境に「自粛は善」から一転して「自粛は悪」へと変ってしまったことがどこか気がかりでならなのである。

 こんな風に「今時の日本人は・・・」みたいな表現をしてしまうと、せっかくここで書こうとしていた「東北人は・・・」のイメージとどこかで対立しそうで嫌なのだが、色々な思いの人がいてそれが世の中であるはずなのに、何かの拍子でそうした流れが一方向へと一気に変ってしまう現象に、私はどこか不気味なものを感じてしまうのである。

 東北人にだって、きっと我慢強くない人がいるはずだし、もう頑張れないから助けて欲しい、疲れたから休みたい、そう思っている人だってきっといるはずだと思うからである。そんな人に向って、「あなたは東北人なのだからもっと頑張れ」なんてとても言えないように私は思うのである。



                                     2011.4.30    佐々木利夫


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東北人は我慢強い?