最近になって金メダルのことが気になり出してきた。私のイメージする「金メダル」とはオリンピックの象徴みたいなものであった。オリンピックを全スポーツの世界選手権大会と言いきれるのかどうか必ずしも自信はないけれど、それでも大雑把ながらそういう意識で私はオリンピックを理解してきたように思う。そのことはつまり「金メダルはその種目に関しての世界一の証拠」であることを当然の前提として理解していたことと同じである。マラソンで獲得した金メダルは世界一速い男の称号であり、走り高跳びの金メダルは世界一高く跳べる男の象徴なのだと、少なくとも私はそんな風に理解していた。

 もちろんオリンピック種目から外れているスポーツや競技内容が多数存在していることを否定するつもりはない。また、オリンピックにも政治がらみの各国の思惑や運営組織内の権力闘争などが深く関与していて、純粋な世界大会になり切っているかどうか疑問に感じることだってある。それでも「金メダリストは世界一」の思いが私の中で揺らぐことはなかった。

 そのことはつまり金メダルは「世界一の栄光」を裏付ける証拠であったということである。それがどうも違っているのではないかと感じる事件に最近ぶつかったのである。それは「金メダル獲得」だの「金メダルへあと僅か」などの新聞やテレビでの報道が、時にオリンピックと無関係な競技大会などから聞かれるようになってきたと感じられたからである。

 私のスポーツ嫌いはオリンピックにまで及び、嫌いを超えて「興味なし」にまで拡大していっている。そんな私に金メダルの情報が飛び込んでくるのは、金メダルがオリンピックを超えて拡散していっているからではないだろうかと思えたのが疑問への嚆矢になったように思う。

 気になった一つは昨年暮れのワールドカップの大会が北海道の帯広市で開催されたとのニュースを聞いた時のことである。ワールドカップと呼ぶのだから、それを世界大会と理解したとしてもそれほど間違いではないだろう。スポーツ関連の情報だから、普段なら読み飛ばしてしまうような記事だし、テレビならそのままチャンネルを変えてしまうだろう。だがたまたま20数年も前ではあるが2年間勤務した帯広の地名が出てきたことでついその記事に目が行った。
 人口17万人足らずの北海道の東寄りにある小さな街でのワールドカップである。私こそ興味不足で開催されていることすら知らなかった出来事だけれど、きっと全市挙げての快挙なのだろうと感じた。

 ワールドカップは分かった。だがワールドカップと言う名称にはどんなスポーツの世界大会なのかの情報は一切含まれていない。記事の中味を見て「ワールドカップ スピードスケート競技会」だと分かった。ただ記事の分量が囲み記事よりも少し大きいくらいで、世界大会にしては見出しも記事も小さすぎるような気がしたし、それがオリンピックとどのように違うのかも気になった。それよりも気になったのが「辻、逆境はねのけ『銅』」の見出しであり(朝日新聞、2010.12.14)、「同市(帯広市のこと)出身の辻麻希選手が逆境を乗り越えて銅メダルを獲得・・・長島圭一郎選手が前日に続く銀メダルだった」と書かれた内容であった。

 私にはワールドカップスピードスケート競技会の位置づけについてはまるで知識がない。だからオリンピックに匹敵するような全世界を巻き込んだ大会なのだと言われても反論のしようがない。それでも私のような興味の薄い人間にも、知らず知らずに伝わってくる世界中が湧きに湧くオリンピックのような興奮が、この大会の開催決定から準備、開会などいたるまで、まるで伝わってこなかったことにオリンピックとはまるで違う競技大会ではないかと思ったのである。そして同時に「メダル」と言う語がオリンピック以外のスポーツ大会にも使われている事実にどこか違和感を抱いてしまったのである。

 それでネットで「金メダル」を用いている大会にどんなものがあるのかを検索してみることにした。優勝者に「金メダル」と呼ぶ記念品を与える競技大会がどれほど存在しているかについての統計的な情報は残念ながら得られなかったものの、そうした大会が驚くほど多いような気がしたのである。ざつと調べただけでこんなにも「金メダルの大会」が目に付いたのである。

 「世界陸上マラソン」、「トラック世界選手権2010」、「東アジア競技大会」、「東南アジア競技大会」、「全国障害者スポーツ大会」、「アジア大会」、「ユニバーシアード競技大会」、・・・

 そして思ったのである。金メダルはオリンピックとはまるで関係がないのではないのでないだろうかと・・・。つまり私がイメージしていた「金メダル」とはまさに錯覚にしか過ぎなかったのである。金メダルはどんな大会でも使うことのできる単なる「一等賞」の表彰状にしか過ぎず、そこには「世界大会」の条件すら必要がなかったのである。
 幼稚園の徒競走でも、野球大会でも、なんならサッカーの地区大会でも、そこでの順位付けの中に一等賞、二等賞があるなら、それを金メダル、銀メダルの呼び名をつけても構わなかったのである。つまるところ、金メダルに世界一をくっつけたのは私の勝手な思い込みにしか過ぎなかったのである。

 こんな私でもオリンピックには少しは耳目を惹かれているし、そこで繰り返される「メダル獲得競争」みたいな報道や国別メダル獲得一覧表みたいなナショナリズムにもいささかの反感を抱きながらも「金メダル=ヒーロー」にそれほど違和感なく接していた。それが金メダルの意味は単なる小学校の運動会で渡される「一等賞」に渡されるノートと鉛筆のセットと何も違わないのだと分かり、ヒーローへのイメージが一挙に破壊されてしまつたのである。。
 金メダルとは私の勝手な想像の世界での意味でしかなかった。私のスポーツに対する興味は、これを知ったことで「興味なし」から「無関心」へと一層縮んでいったのである。もちろん、自分勝手に想像を膨らませ、そして自分勝手にその風船を割ってしまっただけのことなのだと、言われなくても自覚してはいるのだが・・・。





                                     2011.1.6    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



金メダルの意味