数日前、久し振りに友人から電話があった。電話するとき相手が名乗り、受け手たる私も名乗るのは当然のことだから、そのときもお互い久し振りであることに話が弾んだ。用件はともかく、それだけの話である。ところが話をしながら、そしてそれが友人であることを理解しながら、どこか違和感が残ったのである。それは相手の声が私の記憶している声と少し違って聞こえたからである。

 話の途中で「風邪でもひいているのか」と尋ねてみたがそんなことはないとの返答だった。彼とはかれこれ一年以上も会っていなかったし、その間電話で話をすることもなかった。それでも一年少々で声が変わるはずもないのではないかと思い、どうしてこんな気持ちになったのか少し気になった。

 それで気づいたのが、声も少しずつ老いてくるのではないかということであった。例えば飲み会にしろ会合にしろ会って話をするときは、相手の顔を見ながらの会話になる。そうしたときは、例えば明らかに鼻声などで声が変な状況にあるのならともかく、そうでない場合は相手と対面しての会話になるから声の変化なんぞを気にすることはまずないといっていい。なんたってダイレクトに相手の顔を見ながら話しているのだから、声の変質などが気になることなど少ないからである。

 しかし電話の場合は声だけである。もちろん話の内容や話しぶりなどで友人であることは分かっている。しかしだからと言って相手の顔を意識的に思い出しながら会話を続けているわけではない。つまりは相手の確認は会話の内容もあるけれど、声が頼りであることも重要な要素になる。こうしたことは、例えば「おれおれ詐欺」と呼ばれる孫や子などの名を騙る振込み詐欺の多さなどからも理解することができるだろう。
 私の受けた電話は金銭が絡むような深刻な場面ではなかったが、それでも「本当に彼の声だろうか」と一瞬疑問に思ったことは事実であった。そしてその原因に「声の老化」が関与しているのではないか、つまり「あいつも歳をとったなー」とその声に感じたのである。

 確かに年齢とともに変化するのは顔やスタイルだけではない。例えば正月のテレビを何気なく見ていて、普段あまりお目にかからない芸能人が出てきたり、時に古い映画が放送されるなどで一番目立つのは「顔の老い」である。それは時間の空白が長いほどはっきりと私たちに時の経過を知らせてくれる。
 老いは誰にでも共通して訪れる現象だから、古い映画などの出演者に限るものではない。だがいかに老人であっても、例えば日頃から映画やドラマなどに出演していて見慣れている場合には老いを感じることは少ない。それは恐らく私たちの頭の中でその人の顔つきなどの経年変化がその都度微妙に修正されて私の記憶に再保存されていくからなのではないだろうか。記憶の中のイメージが日々更新されていくのなら、記憶そのものが新しく修正されていくのだから、記憶と見ているテレビの姿などとの間にギャップを感じることなど少ないだろうからである。

 声も恐らく同じなのだろう。会って話をした場合などは、スタイルや顔つきなどとともに声もまた上書きされて再保存されていくのだろう。だからクラス会やもとの職場の仲間が集まるOB会などでも、比較的熱心に出席している人にはそれほど加齢を感じることは少ないけれど、久し振りに再会した場合などではそのギャップの大きさに驚くことがある。

 ところでそうした現象はそのまま我が身の裏返しでもある。自分の顔は朝晩毎日鏡を通じて眺めているし、時にカメラに映された映像としても触れる機会は多いから一番見慣れた顔である。声だって自分では好きな声ではないにしても毎日のように自動的に耳に入ってきている。そうした顔や音声も、他者の記憶と同様に自分の中で自分の顔、自分の声として修正されつつ再保存されていくのだろう。
 だから自分の顔はなかなか歳をとらないのである。確かに古いアルバムや4年ごとの運転免許証の更新写真(今は免許を返上しているからそんなことはない)を眺めて、その落差に気づかされることがないではない。だがその落差を感じる機会そのものは滅多にないから、昨日の朝の洗顔時に見た顔も、今朝の歯磨きしている顔も同じ顔であり、それが一週間、一ヶ月を経たところで一年前の洗顔時の顔と比べる機会そのものが存在しないのだから、つまるところ自分の顔はいつまでも昨日の顔と同じなのである。

 声だって同様である。きっと1年前の声と今日の声とは違っているのだろうけれど、それを確かめる手段は日常的には存在しないから、今朝の声が風邪をひいてしゃがれ声になっているくらいでしかその変化に気づくことはないことになる。
 だが久し振りの電話で聞く知人の声は条件が違うのである。記憶された声と今聞こえている声との違いが、数ヶ月、数年を経ていきなり比較されてしまうからである。

 恐らく彼の声もまた歳相応に老いたのかも知れない。だがそれが事実であるなら私の声もまた彼と同様に老いているはずである。別に声が老いる現実に特別な感慨を抱いているわけではないけれど、どこかで一方的に「あいつも歳をとったなー」とだけを感じてしまっている私に、「お互いさまだよ」とふと声を掛けてやりたくなったのである。

 人は目に見えない部分からもちゃんと老いていくのである。古いカセットテープを取り出して聴くことがある。今でこそテープは歴史的と言えるほどにも時代遅れになってしまっているが、それでも私の手許には録音済みのテープがまだ数十巻も残されている。パソコンを使えばテープからCDやSDメモリーなどへダビングすることなど容易だが、そこまでして残したいほどの熱意もない。それでも気まぐれに聞いていて、今でも活躍している数人の歌手の声が若い頃と比べて張りと言うか柔らかさみたいなものが少なくなっていることに気づくことがある。

 声は声帯の振動と言う物理的な現象だから、声帯と言ういわゆる「機関としての物(ぶつ)」が時の経過とともに少しずつにしろガタが来はじめているのは当然のことだろう。そしてそうしたガタは、いきおい他人に向かいがちではあるけれど、実は己にも当然のように訪れていることに知人からの電話に改めて気づかされたのである。そしてそう感ずることそのものが、我が身への老いの訪問を確かめさせてくれたのである。



                                     2011.1.6    佐々木利夫


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声も老いるのか