私が致命的と言ってもいいほど外国語に疎いことはこれまで何度も書いた。いまさらその音痴さ加減を繰り返すのも詮無いことなので、これまでに書いてきた内容をここで引用するのはやめることにした。もちろん私にだって言い訳がないわけではない。日本中で使われている言語が一つの日本語であるとは必ずしも断定できないのかも知れないし、ある言語を方言と呼ぶか異なる言語として捉えるかはとても難しいことだとも感じている。それはかつて沖縄の旅行したときに琉劇(琉球言葉による演劇)を見たのだが、会話全体がまるで理解できなかった(むしろ日本語と思えなかった)ことを覚えているからである。

 それでもとりあえず日本語が日本中どこでも通じるという事実は、一方的に方言をいわゆる標準語に強制的に統一しようとした歴史の存在はともかくとして、「一つの言語」として理解する根拠にはなるだろう。そして一つの言語として定着してきた背景には、日本の国土が島国として回り全部を海で囲まれていたこと(つまり国境がなかったこと)で外国との交流が少なかったこともあっただろう。またもしかしたら日本が長く鎖国を続けていたことだって影響しているのかも知れない。そしてそうした地政学的や政策的な背景が外国からの侵略や影響を遠ざけてきたことによることも大きいといえるだろう。そうした事実はそれだけ日本語を純粋培養の弊害はあるにしても熟成させたと言えるだろうし、ともかくもそうした熟成された日本語を私たちは父祖から引き継いできたとも言えるからである。

 アメリカもそうだけれどヨーロッパなどの諸国では、バイリンガル(複数の言語を使いこなせること)がそれほど珍しくはないと言われている。そうした結果だけを聞くと、私などは羨ましさを超えて劣等感すら抱いてしまう。さりながら逆に言うならバイリンガルとは、侵略や占領などが繰り返され強制された人種や言語の混交があったことの結果を示しているのかも知れない。

 もちろんだからと言って私が「日本語しか知らない日本人」であることの言い訳になるわけではない。それどころか、こうして日々エッセイを発表していると「私自身の日本語すら時に怪しいのではないか」が実感として迫ってくるからである。

 そんな私ではあるけれど、それでも今の時代は私の耳にも多様な外国語が届くようになってきている。もちろん私には理解できないからテレビの字幕やアナウンサーの解説によるしかないけれど、世界中が国際通信なりインターネットなどの情報ネットワークで結ばれるようになってくると、各国のニュースなどはあっという間に茶の間に届くようになってくる。そうした情報がどの程度信頼できるかの評価は難しいけれど、いわゆる同時通訳も採用されるようになってきて、タイムラグさえそれほど気にならない時代になってきている。そしてそうした放送の背景には多くの場合その国で放送されている音声がそのまま流れている。テレビは主音声、副音声、主副同時が自由に選択できるようになっているから、自分の好みに合わせて現地放送だけを選ぶこともできる。だが私の実力がそこまでに至らないことは自白したとおりだから、当初のテレビ設定どうりの主副同時を聞いている。

 だから私は外国で放映されたニュースを日本語の同時通訳で聞いているのであり、そのことは副音声で流れてくる現地語も同時に耳に届いてくることである。そうしたとき、国によって言葉の持つイメージがとても違っていることに気づく。それはあくまでもニュース番組におけるアナウンサーの音声であることが多いから、そこから感じる言葉のイメージもアナウンサーの語調からによることになる。だからそれがその国の日常語としての言葉の持つイメージとは違うであろうことも分からないではない。従ってそんな限られた条件の下でのイメージは、どこか偏ったものになっているかも知れない。それはそうなんだけれど、それでもなお国によって言葉の流れていくイメージがそれぞれに違うことに驚くことがある。それはたとえば時折聞く教育テレビの外国語講座などでも同様である。

 それは私だけの感じる単なる思い込みなのかも知れない。例えば石川啄木にこんな歌がある。「かなしきは小樽の町よ/歌うことなき人人の/声の荒さよ」。だからと言って私には、小樽の人たちの会話が日本語として特に荒いなどと感じたことはないし、小樽に住む人の会話だけが特別な響きを持っていると感じたこともない。石川啄木が「声が荒い」と歌った背景が、単に声の性質だけの意味だったのか、それとも小樽の町やそこに住んでいる人々から感じた我が身への疎外感があったのかそこまでは知らない。それでも啄木に「声が荒い」と歌わしめる何かが小樽の町にあったことは事実だろう。

 ましてや意味の分からない外国から受ける言葉の持つイメージは、逆に意味から離れた直感的な訴えを私に伝えてくれているように思える。そんな感じを最初に受けたのは、一つの歌からであった。歌っているのが日本人だったか外国人だったかすらも忘れてしまったが、歌の背景にフランス語の女性のつぶやきみたいな音声が入っている、そんな曲だった。私はその途切れ途切れに聞こえてくる抑揚を抑えたような単調なつぶやきが、とても悲しげにそして蟲惑的に感じたのである。そして別の機会にこのつぶやきが単なる「フランス語による天気予報」なのだと知ってとても驚いたのであった。そして同時にフランス語が持っているリズムに少し興味が湧いてきたのであった。

 そういう思いで外国語のニュース番組などで流れる副音声を聞いていると、それぞれの国によってこんなにも言葉のイメージが違っていることに驚かされる。もちろん私に外国語は分からない。分からないどころか、英語と米語、正当英語だと言われているキングスイングリッシュとテキサス訛りの違いすらも分からない。それはそのまま北京語、広東語の違いにまで広がっていくし、やがては朝鮮語との相違にまで拡大しつつあるような気配さえ見せている。
 そんな程度の意識で言葉の持つイメージを語る資格などないとは思うけれど、それでもドイツ語やロシア語の持つ、あの語感の荒さにだけはどうにもなじめないような気がしている。

 言葉がそれぞれの国・・・、(と言うよりは閉鎖された地域におけるコミュニケーションとしてと言ったほうが
より適切かも知れない)によって独自に発達をしていくのは当然のことだろう。それはもちろん「声を使う」と言う意味での共通性が根底にあるのだろうけれど、バベルの塔の混乱はコミュニケーションの閉ざされた地域の差として当然だろうとも思える。それはそうなんだけれど、「耳に聞こえる音としての言葉」の持つ響きというかシラブルやリズム、一つの音楽としての言語が国によってこれほど違うのはどこに原因があるのだろうか。

 言語がどんな歴史を持って形成されてきたのか私は知らない。だがまず意思伝達の手段としての声があって、その声の記録として文字が発明されたのだろう。だとするなら言語の発祥は歌うこと、声として伝えることにあったはずである。言葉は発祥の最初から一つのリズムをもって生まれてきたのではないだろうか。日本語の万葉時代の発音の仕方(それがどのようにして復元できたのか私にはまるで分からないのだが)による歌の詠みかたを聞いたことがある。違和感はあったけれど、それなり美しい響きをもっていた。日本語が五七五のリズムで刻まれるような発音で生き延びてきたのも、そこに自然発生的な音の流れが言葉の中に基本的な要素として閉じ込められているのだろう。

 だとすれば言葉のリズムもまた、その国の言葉の熟成と無縁ではないだろう。だからドイツ人がドイツ語の持つリズムがフランス語の持つリズムよりもより快く感じるのかも知れない。言葉の成長には「一つの慣れ」もまた栄養として必要になっているかも知れないからである。
 そうは思いつつも、内容的には無機質とも言えるような「天気予報を報道しているフランス語」の持つリズムが、無機質な単なる情報伝達にもかかわらず私には日本語よりもどこか魅惑的に感じられてならないのである。それが天気予報だと知る前でも、そして知った後からでも・・・。



                                     2011.7.7    佐々木利夫


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