3月の東日本大震災が影響しているのか、それともギリシャやイタリアの財政危機でユーロ圏そのものの存続が危ぶまれているヨーロッパ経済が波及してきているのか、それとも依然として続いているアメリカの住宅危機とそれに連なる雇用不安が影響しているのか、そもそも単に日本の景気が悪いだけなのか、どことない不況ムードが漂う昨今である。
不況はそのまま交際費や広告宣伝費などの削減にも結びついてくるから、新聞広告などは減っていくのかと思われがちだが、それとは逆に売り上げ減に対抗するには宣伝が必要になってきているからなのか、最近は新聞の広告のスペースが多くなってきているような気がしてならない。活況下での広告の増加みたいな感じは受けないので、もしかしたら新聞社も単価を下げて広告紙面を拡張することで収入の維持を狙っているのかもしれない。
昔は、と言ってもそんなに古いことではなくせいぜいが10数年くらい前の感じだけれど、新聞1ページを使った全面広告というのはけっこう珍しくそのことだけで一種の驚きを与えてくれたように記憶している。ところが最近の新聞ではそんな広告は毎日必ず存在し、しかも1ページどころか見開き全部であるとか、全紙面32ページ中8ページにも及ぶなどは当たり前になってきている。
ところでこれは広告ではなく、とある評論家が連載している特集記事の一つである。この日のタイトルは
「広告と報道 新聞ななめ読み 紙の新聞に存在価値あり」(池上彰、2011.10.28、朝日新聞)であり、その中で彼はこんなことを書いていた。
「10月20日付の読売新聞勇敢(東京本社版)を見て、あっと驚きました。新聞広告の欄がすべて真っ白になっていたからです。よく見ると、小さな文字が。1面下にこんな文章が・『東日本大震災の直後、広告が消えた新聞をおぼえていすか』 以下各ページには、次のような文章が。『広告スペースも、記事で埋め尽くされた。それでも、悲しみのすべてを伝えることはできなかった』『社会の活力がなくなる時、広告は、カンタンになくなってしまう』新聞広告の大切さを訴える広告だったのですね。・・・新聞広告のない新聞は、妙に寒々としていました。見事なアイデアの勝利でした・・・」
私はこの読売新聞を見ていない。見ていないけれど、その新聞が寒々していただろうことを否定するつもりはない。あっと驚いたこともまたその通りだと思う。でもそれは広告が消えたことによる効果とは違うのではないかと思ったのである。私がその真っ白な広告の新聞を見たわけではないからと言って、何らかの違和感なり、意外性をそうした紙面から受け取ったであろうくらいの想像力はあるつもりである。でも繰り返して言おう。その意外性の原因は広告が消えたことによる効果なのではなく、新聞紙面に通常ではあり得ないであろう空白があったからだと確信しているからである。
ところでその紙面のあちこちに空白欄が散在しているのではなく、例えば愚にも着かない記事でもいい、私に言わせるならスポーツ記事でも芸能界のゴシップ記事でもいい、どんな内容の記事でもいいから仮に埋め尽くされていたとするなら、驚きどころか違和感すら抱かなかったのではないかと思うのである。恐らく「何とくだらない記事の多い今日の新聞だろうか」とか、「こんな新聞はとるのをやめて、別の新聞にしようか」くらいは思ったかも知れないが、文字のない真っ白の空白が点在している新聞を眺めたような驚きを抱くことなど決してなかったと思うのである。
私が読んでいるのは朝日新聞だから、投稿者が取り上げた読売新聞とは構成や活字や編集スタイルはもちろんのこと、当然採用する記事の内容なども異なっていることだろう。でも基本的には一面に重要な記事が載り、次いで社説や政治、国際、経済、スポーツなどが続いており、更に地方の特集や最終の見開きには社会面たるいわゆる三面記事が載り、そして最終ページがテレビの番組表になっているような構成は、おおむねどの新聞でも似たり寄ったりであろう。そしてその紙面のいたるところに広告が点在している。点在どころか、広告のないページを探すほうが難しいくらいに溢れていることだろう。
ある文字群のかたまりが記事なのか広告なのかは、紙面の1ページ全部を使おうが部分的であろうが見なくたってすぐに分かる。正確に言うなら「見なければ分からない」のだが、広告には写真やイラストが多用されているほか文字などもデザイン化されているしカラーも多いなど、一目でそれと分かるスタイルがあるからである。だからいちいち中身を確かめなくたって目の端をさっと通過させるだけで、記事か広告かの違いぐらい分かると言う意味である。もちろん「分かる」とはその広告の内容が分かると言う意味ではな。その部分なりページ全体が「広告である」ことが分かるという意味である。そしてそのことさえ分かるなら、広告にそれほど興味がない私にとってみれば、何の広告かを知ることなくパスしてしまえることになる。女性の顔が大きく写っているなら、化粧品の広告か婦人雑誌の宣伝かはどちらでもいいのだから、次の記事の書いてあるページへと視線を移せばいいだけのことだからである。
これは少なくとも私単独の意見ではあるが、仮にその日の新聞に広告の掲載が一つもなかったとしても、この著者が抱いたような違和感を持ったとはとうてい思えないのである。つまり、紙面全体が日常的な政治や経済やスポーツなどの当たり前の記事で埋め尽くされていたとしても、恐らく私はその紙面から「広告の不存在という違和感」を抱くことなどなかったのではないかと言うことである。
これとは反対に、私の興味をほとんど惹かないスポーツ紙面であっても、「サッカー○○、優勝」だとか「△△逆転ホームラン」のタイトルがあるだけで、その解説と言うか経過などを示すような記事が真っ白なままで空白になっていたとしたなら、いかにスポーツ嫌いの私でも恐らく違和感を抱いただろうし、場合によっては「あっと驚いた」かも知れないと思うのである。
これは決してスポーツ記事が空白であることに驚いたのではない。この論者の意見を借りるなら、スポーツ欄にこうした空白の記事が空白のまま掲載されていたのなら、「スポーツ記事のない新聞は、妙に寒々としていました」となるのだろうか。またそれが社説欄なら「社説のない新聞は、・・・」だし、芸能欄なら「芸能記事のない新聞は・・・」となるのだろうか。
つまり、こうした言い方はどんな場面にでも当てはまるのであって広告特有の現象ではないから、逆に言うならそこから特定した意見を引き出すことはできないのではないかということである。筆者の感じた驚きは決して広告のない新聞の寂しさを証明しているのではなく、単に活字でふさがっているはずの欄が空白になっていたことへの違和感にしか過ぎないことを示していただけなのだと思うからである。
筆者は空白の事実を捉えて、あたかも広告が新聞の豊かさや充実を示すための必須アイテムであることの証左でもあるかのように言う。だが別の立証手段を持ってこない限り、その言い分にはなんの証拠も説得力もないのであり、単に「驚きと言う錯覚」を利用した自己陶酔の意見にしか過ぎないのではないだろうかと思ったのである。
2011.11.8 佐々木利夫
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