テレビのグルメ番組などでタレントが顔をくしゃくしゃにさせて「おいしい」を絶叫連発している姿をよく見かける。旨いのだから旨そうな顔をすることになんの不思議もないだろうと言われてしまえばそれまでのことだけれど、似たような番組の全部が同じようなスタイルになっているのを見ていると、どこかうそ臭い感じがしてくる。まあそれは、そうした商品の宣伝番組の一つなのかも知れないし、味というのは数値で示すわけにはいかないからどちらかと言うなら顔つきや言葉によるしか伝達する方法のないことが原因の一つになっているのかも知れない。また場合によってはそうしたタレントに比して私の持っている味に対する感応力が劣っていることの裏返しを意味しているのかも知れない。

 ところでこんなことを言っちまったら、長年連れ添ってきた女房殿の顰蹙を買ってしまうかも知れないが、私には「へえー、けっこう旨いじゃない」とか「なるほど、まあまあいい味しているね」程度の感触はあるものの、あまりの旨さに絶句して声が出ないとか顔くしゃくしゃにしなければ表現できないような、そんな旨さには家庭料理はもとより外食などでも残念ながら出会ったことがない。

 もしかしたら私は、旨さを味わう度合いの振幅が小さいのかも知れない。口に入れるほとんどが、普通に食べているだけで、特別に旨いまずいを一口ごとに言い聞かせながら食事をするような場面にはなっていないからである。それは別に食べているものが無味乾燥で評価に値しないと言うのでは決してない。納豆は納豆の味がしていてそれなり味わって食べているのだし、味噌汁だって具がキャベツよりは大根の千六本に油揚げのほうが旨いから好きだななどの感想だってその都度味わっているつもりである。それはこれまで食事を残したことがほとんどない事実が証明していると思う。

 舌、厳格には味蕾(みらい・舌にある味を感じる細胞)の機能が人によってどう違うのか、私にきちんと理解ができているわけではない。例えば味について、吐き出すようなまずさを示す下限から、人生投げ打っても構わないと思わせるほどの美味の上限まであることについて、抽象的には理解できないではない。もっとも、そうは言ってもその味を感じる振幅なり程度を決めるのは、やっぱり人の舌によるしかないのかと思うと、こうした割り切り方にもいささかの疑問の余地がないでもないのだが・・・。

 ともあれ、なんらかの基準がないと比較そのものができないだろう。「俺の感じてい旨さとお前の感じている旨さとはどれだけ違うのか」をきちんと示さないと比べられないだろうからである。そうした前提抜きにグルメを自称する者や一流の調理人などと呼ばれている人の舌と私の舌を対比して話をすること自体が不可能になるだろう。つまりそうした振幅の中で、一流シェフの舌が感じるある料理の味覚の位置付けと私が感じる位置の差が、グルメか味音痴かの違いとなって表われるのだろうからである。

 さてここまでは言葉として理解できる。次の段階は、その振幅の中心線である。一流シェフの中心線も私の舌の中心線も同じなのかどうかが問題となる。そしてその振幅の広狭も加算されるだろう。私の振幅が狭いのは経験則として実感しているとしても、その中心線が一流シェフの中心線よりも上にあるのか下にあるのかは大きな問題となる。仮に私の舌の振幅の中心線がかなり上のほうにあって、旨さを感じる程度の上限が一流シェフの振幅の上限に近いのであれば、私は少なくとも旨さに関しては一流シェフと同じ程度の感覚を持ち、その反面まずさは感じないことになるだろう。逆に私の中心線が平均値よりも低い位置にあるなら、場合によっては私はまずい味はシェフ並みに感じることができても、旨さを感じることは能力的にできないことになる。

 もちろんそうした事態は、私の舌の味覚中心線が平均値に近い位置にあったとしても同じ結果を生むかも知れない。それは「どんな旨いものに出会ってもそこそこの旨さしか感じない」ことであり、同時に「どんなにまずいものであっても、一流シェフが感ずるまずさよりはましな味になってしまう」ことにしか過ぎないからである。でも味覚の振幅は人によって異なるのだとしたら、悲劇はもっと拡大する。旨さはほどほどしか感じられないけれど、まずさだけは極限まで感じられる舌である可能性だって十分に考えられるからである。

 こんなことをいくら語ったところでせん無いことかも知れない。味覚障害と言われるような病気があることを聞いたことがある。体内に亜鉛などの微量金属が欠乏するとそうなるとも聞いた。けれども、一般的な味覚の振幅に関するテストみたいなものの存在など聞いたことがないのも事実である。
 味わいの程度に、プラス100からマイナス100までの振幅を示し、一流シェフAさんの舌は+95〜-93、あなたの舌は+30〜-45ですなどと示してくれるといいのだけれど、どうもそれは無理らしい。きちんと知っているわけではないが、味の検査は色々な味を浸したろ紙を舌に載せ「感じますか、感じませんか、どの程度ですか」みたいなテストをしている風景をどこかで見たような記憶がある。それはきっと味というのはこれしきのものでしかないということなのかも知れない。

 味覚についての話題を思いついたのは、二月ほど前のNHKテレビで、小学校の教育実習での料理番組を見たからである。先生が同じ材料で二種類の味噌汁を作り、片方に出汁(だし)を入れもう一方には入れないで生徒に味見させる番組だった。先生の思惑は出汁には煮干や昆布など様々な種類があり、それぞれに味わいが違うことを学習させたいことにあった。ところが結果は驚くものだった。出汁のあり・なしのどちらが旨いか、味にどんな違いがあるかなどの質問に対して、旨さに対する生徒の反応はほぼ半々になったのである。つまり出汁なしのほうがおいしいと答えた生徒が半数もいたということである。先生は実習の目的から外れてしまった生徒の反応に困惑する様子を写すところでこの番組は終わった。

 「今時の子どもは味覚の訓練ができていない」と言ってしまえばそれまでかも知れないけれど、私にはこの番組から多少大げさに言うならとても衝撃を受けたのである。そして「一体全体味ってなんだろう」とも思ってしまったのである。暇に任せて料理番組を見ることもあるし、時には自前の店を開くためにラーメン修行に挑む若者の苦節のストーリーを見ることもある。何十年も続いた秘伝と称する焼き鳥やおでんやうなぎなどのたれの話も聞いたことだってある。

 でも他方において、出汁のない味噌汁の方が旨いと感じる若者がいる。もちろん出汁がないと言ったところで、私たちの知るカツブシや煮干や昆布や化学調味料などが入っていないというだけであって、味噌汁の具や味噌そのものにだって味があるのだから、蒸留水の湯のなかに味のない野菜が浮いているわけではない。だからそうした子どもたちの反応は、もしかしたら素材そのものの味を子どもたちが直感的に味わっている結果なのだと理解できないではない。そしてそうした舌を持つ子どもたちの存在は、逆に言うなら煮干や昆布で出汁をとることをしなかった親たちややみくもに濃い味付けを強要しているファーストフード店などが作り出した反面教師としての影響だと見れないこともない。

 そうした思いに、私たちの味覚というのはもしかしたら地域や家庭の習慣によるしつけみたいなものが強く働いているのではないかとの感触を重ね合わせると、味とは何かの問題はいよいよ分からなくなってくる。納豆は関西では食べないとの話を聞く。滋賀県のフナ寿司や伊豆諸島などのくさやの干物、そのほかソ連のいわしの缶詰や想像したこともないような中国や東南アジアなどの味や料理などなど、世の中には常識では理解できないような食べ物がたくさん存在している。そうした常識とはまさに食べる人が理解できるかできないか、食べる習慣の中で生活していたかいなかったかの常識でもある。

 こんな話も聞いたことがある。生の大豆をそのままでは生臭くで食べられないけれど、鼻をつまんで食うと大丈夫なのである(これは私も実証済みである)。これはつまり味とは舌専用の特権ではなく、呼吸なども含めた総合的なものかも知れないということでもある。
 考えてみると私たちの味覚を巡る環境というのは、決して舌だけではないことに気づく。香りももちろんだけれど、歯ざわりや歯ごたえ、頬の内側への感触やのど越し、料理の温度はもとより彩りや形などの見た目なども含めて、味を決定付ける因子には多様なものがあると分かってくる。そして恐らく赤ん坊のときから、我が喉を通り過ぎて行ったであろう様々な味の経験や回数や結果的ではあるかもしれないが訓練や習慣などが、私の味覚を決定付けているように思える。

 舌なども含めて味覚を感じ取る感度に人それぞれ、どの程度の違いがあるのか私には必ずしも理解できているわけではない。天下をひっくり返すほどの旨い味にぶつかったことがないのは事実だけれど、それが不幸なことなのかどうかも分からないでいる。その分、死にたくなるようなまずさを感じたこともないのだからこれも一つの味の均衡だと言っていいのかも知れない。

 味という言葉は趣味、興味、地味、持ち味などなど、食べて味わう味とは違う分野にまでその領域を広げている。それだけその人その人にふさわしい味が備わっているのかも知れないし、場合によってはそうした味わいの違いがその人の個性といわれるものなのかも知れない。

 料理番組などを見ていると、「食欲のないときには、○○のような料理や味付けや盛り付けがお勧めです」みたいな表現が何度も繰り返される。いつも感じてしまうのだが、絶叫マシンに乗らせれたような「すんごい旨さ」を感じたことのない私だが、逆に「食欲がない」と感じたことも今まで経験がないように思っている。いつもほどほどに旨いと感じる程度の舌しか持ち合わせていない鈍感な味音痴にとってみれば、あんまり上等でない舌のほうが人生を楽しませてくれているのではないかと、そんな気にさせられている今年の食欲の秋である。



                                     2011.9.30    佐々木利夫


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