長い人生、人はいつだって立ち止まって悩むことがある。目の前にはいくつもの道が分かれている。右か左か、それともまっすぐか・・・。選ばないわけにはいかない。時に「選ばない」ことを決断することもないではないけれど、それだって一つの道を選んだことに違いはない。

 そうした時に、私はいつもこんな言葉を思い出し、選ぶことのなかったもう一つの道への弔鐘にしている。

 「結婚し給へ、君はそれを悔いるだろう。結婚しないでゐ給へ、やつぱり、君は悔いるだろう。結婚しても、しないでも、孰れにしても君は悔いるのだ。世の中の愚を嗤ってみ給へ、君はそれを悔いるだろう。世を欺いてみ給へ、君は又それを悔いるだろう。世の中の愚を嗤ふも、又欺くも、孰れにしても、君は悔いるのだ。一人の娘を信じてみ給へ、・・・首を縊ってみ給へ、・・・孰れにしても君は悔いるのだ。これは総ての世間智の本質である。・・・」(キエルケゴール、「憂愁の哲理・あれか、これか」p35、春秋社、昭和23年12月発行)。

 人生はどんな形にしろ選択の連続である。例えそれが昼飯をそばにするか定食にするかなどのどちらでも構わないような選択から自分の将来を決定付けるような選択まで含めて、まさに多様である。だからそうした多用な選択に応じた数だけ人生が存在すると言ういわゆるパラレルワールドがSFの世界で語られる要因になっているのだろう。
 つまり昼飯にそばを食ったことで「そばを食った」と言う分岐した人生が生まれ、もし定食を食ったなら「定食を食った」と言う別の人生が生まれる。場合によっては「昼飯を抜いた」と言う人生もまた生まれるかも知れないということである。だからパラレルワールドは無限に存在する。個人にとっての無限の選択肢による分岐が人間の数の組み合わせだけ存在することになるからである。まあこんなことは一種のお遊びとして、空想の世界だけにとどめておいていいのかも知れない。

 ただ私がキエルケゴールのこの引用した文章に惹かれたのは、人はどんな選択をしても(場合によっては選択しないと言う選択をしても)、必ず後悔するのだというところであった。「人はどんな場合でも後悔する」、私はその言葉が真実だと思ったのである。この言葉はつまるところ「選択しないこと」もまた選択の一種であることを示している。だとすれば、後悔のない人生など存在しないことになる。あらゆる選択肢が、すべて後悔へとつながるのなら、人生とは後悔そのものの連続であり積み重ねである。選んでも選ばなくても後悔するからである。

 こんな風に考えると、すべての人生は後悔だらけの真っ暗闇で、夢も希望もない絶望にまみれているかのように思えるかも知れない。だとすればそんな人生なんぞ生きるに値しないと思う人がいるかも知れない。ところで一つの選択が後悔につながると言うことは、もう一つを選択しなかったことに対する後悔でもあるだろう。それはそうかも知れない。でもその後悔がどんな場合も人生の絶望につながるほどのものだとは限らないのは、自らを省みて分かってくる。確かに人は後悔するかも知れない。でもその後悔の味にも様々なものがあると思うのである。それは私の実感だからである。時に後悔は楽しむことすらできるからである。後悔だらけの人生にだって、まんざら悪くないとの味付けが多々経験できるからである。それは成功体験の影に、どこか選ばなかったことへの後悔が隠し味として存在しているかも知れないと思えるからなのかも知れない。

 それは選ばなかった選択肢は選びようがないからである。目の前に右と左の分かれた道がある。どちらかの道を人は選ばなければならないとする。選んだことで人生がどう変るかなんて選ぶ最初では分かりようがない。右を選ぶ、その瞬間に人は「左を選ぶ」という選択肢を放棄したことになる。右を選んだ後に左へと舵を切ることはできるかも知れない。でもそれは最初から左を選んだこととは決定的に違っている。その左は、「右を選んだ後の再選択としての左」であり、「始めから左を選んだ」こととは決定的に違うからである。選ばなかったもう一つの道に対して、人はその選ばなかったことを後悔するかも知れないけれど、私たちに時間を巻き戻すことなどできはしない。左を選んでしまえば、そのことをどれだけ後悔しようとも「その時に右を選んだ」と言うチャンスは永久に巡ってこないからである。

 でもキエルケゴールはどちらを選んでも人は後悔するのだと言う。だとすれば私たちはその後悔と、どこかで決着をつけるしかない。そうしたときの決断の方法はたった一つ、「自分で決める」ことでしかない。悩んで悩んで自分で決着をつけるしかない。もちろん決着をつける方法には様々あるだろう。神社で賽銭を放り投げて神様に決めてもらうこともいいだろうし、さいころを振って出た目の数で決めたって構わない。なんなら教祖と頼る誰かの神託を頼りにすることだって少しも構わない。

 でもその決断はいずれにしても後悔することになるのである。決断した方法に対して後悔するのではない。どんな決断であっても「選択したこと」そのものに人は後悔するのである。なぜなら、選ばなかったもう一つを私たちはどうしても経験することができないからである。ならば、自分の意思にその後悔を委ねるしかない。自らが迷いながらも自分の意思で決めた選択であることを後悔の最中に自分に言い聞かすしかない。それがどんなに強い後悔であったとしても、その選択の最初において自己決定したのなら、それは自分の責任として了解できるからである。そして選ばなかったもう一つは、今後悔している様々に「人生そんなもんさ」、「それでいいじゃないか」、「それはそれでいい経験になったよな」と、ほんのちょっぴりかも知れないけれど慰めを与えてくれる調味料にするしかない。

 それにしてもこの本はどんな風にして入手したのだろうか。昭和23年発行の紙質も悪いこの本はすっかり茶色に変色していて、戦後の物資不足下での発行であることが一目で分かる。23年は私が8歳の時だから、まさかにそんな歳でこんな哲学書を入手したものではないだろう。あちこちに赤線が引いてあったり、下手な字で「永遠の相は『あれかこれか』の後に存するものではなく、その前に行くものである」なんぞの書き込みもしてあることから考えると、恐らく高校生になってから手にしたものであろう。私が生まれたのは夕張だが、古本屋に通った経験は皆無だし、そもそも古本屋そのものの存在すら記憶にない。僅かに近所の男性から本を貰ったようなかすかな記憶が残っていること、この本に類似した何冊かが私の蔵書に昔から存在していたことからすると、本好きだった私に贈与してくれた物好きな人物が近所にいたのかも知れない。

 人生を70数年も経験してみると、選ばなかった様々が思い出されてくる。それは一つの後悔ではある。選ばなかった沢山のもう一つが、どんな運命を私に与えたのかそれを知ることは不可能だからである。
 私の人生における分岐点について、常に「決然たる判断により自己決定した」と自負することはできないまでも、自分の意思で決めたことだけは言える。それが「現在よりも更に素晴らしい別の人生」への決別だった可能性だってあるかも知れない。それでも「可能な限り他者に流されずに自ら決断した」と密かに自負する今のこの私の人生にとって、そうした「あり得たかも知れないもう一つの素晴らしい人生」への後悔は、決して今を否定する後悔ではない。後悔だから決して極上の甘さを伝えるものではないけれど、「これで良かったのだ」とどこかで今の自分を後押ししてくれるスパイスになってくれているような気がしている。仮にその後悔がほろ苦さを伝えるものだったとしても、それでもやっぱり今ある自分への大切な応援歌であることに違いはない。それもこれも、自分で選んだことだからである。



                                     2011.5.3    佐々木利夫


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選ばなかった
 もう一つとの決別