ごく当たり前のこととして少しも疑問に感じることなどなかつたのだが、新聞でもテレビでも、そしてそれが犯罪の加害者・被害者の区別や事件性のまったくない単なる事実を示すニュースであっても、人物が登場する場合には必ずといっていいほど年齢が示されている。人が関わっている記事が報道されるとき、その文中の人物が子供なのか大人なのか老人なのかなどだけでなく年齢を示すことが読者に対する必須の要件だと、報道する側は考えているのだろうか。

 でもどうしてそうなんだろうと考えたとき、記事として年齢の表示が必須なのかどうかについて改めて疑問が湧いてきたのである。もちろん年齢が必要な場面だってあるだろう。成年と未成年とで異なる判断を求められる事件もあれば、自分の意見を表明できる年齢だったのかそれとも幼児や赤ん坊だったのかなど、読者が無意識にしろ要求する場面だってあるだろう。だから報道に性別や年齢が必要なケースのある場合を否定しようとは思わない。

 それにしても、なんでもかんでもそれが必須なのだと思っていいのだろうか。まあ、嘘を書くわけではないだろうから、性別や年齢を表示されたからと言ってそのこと自体が被害になることは少ないかも知れない。それはそうなんだが、私たちはどこかで「年齢を書かない記事」に物足りなさを感じるように誰かに操られてしまっているのではないだろうか。

 どうして私たちはこんなにも年齢にこだわるのだろうか。もちろんそうした背景の一つに、例えば「長幼の序」と言った人としての階級意識を、年齢で区分しようとした民族的な歴史のあることを否定はしない。そしてそうした考えを一概に否定しようとも思わない。でもそれは例えば私にとってなら、私が直接出会うであろう人物に限定されていいはずである。もちろん知らない人物に出会う(会いに行く、手紙を書くなど)ことだってないとは言えないだろう。でもそれにしたところで、きわめて限定された範囲内の人物であり、それとても年齢で区分すると言うよりは、どんな目的で会うのか手紙を書くのかなどと言った互いの立場の違いによって、いわゆる長幼の序や立場の違いみたいな関係をつかめばいいのであって、年齢がそれを決めることは極めて少ないのではないだろうか。

 それとも私たちは、会う(知る)前から特定の人物を年齢で評価しようとしてしまうのだろうか。毎日のように新聞に死亡記事が載っている。テレビでは交通事故や登山などで死亡したり怪我をしたことが報道され、詐欺罪で逮捕されたり、その被害者などの記事が載る。実名で表示される場合もあれば匿名の場合もある。ただ年齢だけは確実に示されている。0歳との記載もあれば100歳を超える者もいる。だがしかし、多くの人たちは(むしろほとんが)私とは無関係である。

 もちろんそうした記事を見て、私がその対象者を私の知人ではないかと気になる効果はある。同姓同名の人物は多数いるだろうし、その全部について私が住所などまで記憶している保証などないからである。似た名前がある。私の高校時代の同級生なら年齢は私と同じかせいぜい一つ違いだろうと想像して、5歳違うから他人だろうと結論できるような効果はある。でもそのことのためにテレビや新聞は多くの登場人物について年齢を表記しているのだろうか。

 テレビや新聞を見ているのは私だけではない。不特定多数という言葉を使いたがるけれど、何万人、何十万人が同一の記事を見ている。そうした人たちが私と同じように「この人物は私と関わりのある人物ではないだろうか」との疑念を抱くことを想定し、そうした疑念を払拭するために記事には年齢を表記しているのだと言っていいのだろうか。だとするなら、それはもしかしたらマスコミの勝手な思い込みなのではないだろうか。

 私自身の年齢が70を超えてきて、そろそろ数えることにそれほどの意味を感じなくなってきたり、誕生日などもどうでもいいようになってきているからそう思うのかも知れないけれど、マスコミは年齢を気にしすぎているのではないだろうか。そしてもしそれが私たちが年齢を気にする民族だからなのだとするなら、日本人は年齢を過剰に意識しすぎる民族になってしまっているのではないだろうか。

 確かに私たちは年齢によって区別する社会を作り上げてきた。予防接種を始めるとか幼稚園には何歳から入れるとか、小学校や中学校への入学や結婚なども年齢基準である。二十歳になれば酒が飲めると新成人が式典会場で酩酊して大騒ぎをするような行動も、一種の年齢基準がそうさせている面がある。
 そうした年齢による画一された基準に従うことには、そこに一つの安心感があることは否めない。でも年齢がその人のその年齢に応じた人格の成熟度を示しているとは限らない。そけは万年青年だとか老成などと言ったり時に神童などと呼んで、実年齢と社会的評価(恐らく実年齢に応じているだろうと想定する抽象的な成熟度)との食い違いを大雑把に表すような言葉だけの意味ではない。私には事実として人の成熟度と年齢とはおよそ無関係であるように思える。

 私たちの住む日本は、とりあえず出生届けや死亡届を基本とした戸籍制度などがしっかりしていて、個人個人を年齢で管理することは可能である。恐らく戸籍制度が確立してない環境下では、例えば年齢による学齢期の管理なども含めて年齢による住民の管理は事実上困難だろう。それでも人は社会生活を営んでいけるような気がする。現に戸籍制度は徴税や徴兵などのために為政者の側から確立されてきたように思うし、日本にもそんな制度のない時代があったはずである。また世界中のあらゆる民族が出生や死亡などを他者によって管理されているとは限らないだろう。

 人は自らの経験や学習などで成長していく。それは決して年輪を重ねることだけを意味しているのではない。馬齢はいくら重ねたところで馬以上にはならないだろうからである。年齢を気にするのはその人の属する社会の特性によるのかも知れないと書いたけれど、もしかしたら私たちもマスコミも、年齢を気にするように社会にどこかで管理されているからなのかも知れない。

 それとも私たちが新聞テレビで年齢を気にするのは、もしかしたら自らの安定を他者の年齢を知ることで確認したいからなのだろうか。90歳の老女の死亡記事を読む。90なんだから死んでもいい歳だと自らを納得させ、時に我が身にはもう少し余裕があることを安心する。また5歳の子供の死に対しては、幼くて途切れた人生を悼んでいる自分の優しさに満足する、そんなことのために人は他者の年齢をこんなにも気にしているのだろうか。



                                     2011.5.6    佐々木利夫


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年齢へのこだわり