携帯電話も含めてインターネット環境の拡大には目を見張るものがある。なんたって携帯電話がいつの間にか「電話」でなくなっているのだから・・・。電話に対して電話でなくなっているとの言い方はもしかしたら間違いかも知れない。私は携帯電話を途中で放棄して以降、現在まで約10年近く利用していないけれど、事務所の固定電話はいわゆるIP(インターネット・プロトコル)電話であり、まさにインターネットによって通話もファクシミリも可能になっているからである。

 それはともかく様々な情報収集やこうした私のホームページ開設なども含めて、世はまさにインターネットの時代である。事務所に居ながらにして格安電気製品を物色し、クリック一つで家具やおもちゃの果てまで購入できるようなシステムなんてのは、少なくとも10数年前までは想像もできなかった事柄である。そうした便利さは十分理解しているし、その恩恵をたっぷりと受けていること、そしてそれが私を含む多くの人々にとっても共通であることだって分からないではない。

 例えば相手のメールアドレスさえ分かれば、その情報が有料か無料かはともかくとして官庁も企業もその相手に対して情報を流すことは今や当たり前に行われている。また仮にメールアドレスが分からなくても、官庁や企業が独自にホームページを開設しているなら、そこに表示された情報は一般にオープンなものとして接触した人は自由に利用することができる。
 私の開設しているホームページだって同様であり、特定のホームページにどうしたら到達できるかの手段はともかくとして、特に閲覧に制限をかけているわけではないから閲覧は自由である。そうした現象はまさに「すべての人に公開している」ことと同じである、と私は無意識に感じていた。来るものは拒まずなのだから、来たいと思う人を私は制限することなどないのだし、またできないようなシステムにしているからである。

 だがこうして自らの情報を「誰も拒まない」ものとして公開しているとき、そして自らもまた欲しいと思う情報をインターネットの海の中から探っているときに、ふと「万人に情報を公開していること」と必要とする人にその情報がきちんと伝わっていることとはまるで別のことではないかと思ったのである。
 私の発信する情報がたとえ万人に向けて公開されていたとして、そしてそれが仮に誰の目にも届かなかったところで、それは私個人の問題でありまさに自己完結で済む話である。しかしそのことと、官庁や企業が「知らせなければならないこと」をホームページ上で公開することとはまるで意味が違うと思うのである。私の発信だって、訪問を期待して作成していることに違いはない。しかしそれは、せいぜい「閲覧して欲しい」程度のレベルであって、「必ず」とか「絶対」などを含むものではない。

 こうした思いを抱いた背景は、官庁や企業の広報担当者などが、把握しているメールアドレスの全員に一定の情報を発信したことやホームページ上でそうした情報を公開したことの事実をもって、いかにも「全国民に向けてその情報を公開しました」というような口ぶりを示しているからである。しかもその事実を公表することで、自らの広報が事足りているかのように言い募る、そのことが嘘だと感じてしまったからである。
 情報を印刷しそれを様々な窓口に置いたり、時に必要と思われる対象者に郵送したりするのが、これまでの多くの情報の発信の姿であった。それは必要に応じテレビやラジオなどのマスコミ媒体を含むものへと変形することでもあったけれど、基本的なイメージは少なくとも一方通行であった。

 そうした方法に比べてインターネットを利用した情報の伝達は比較にならないほど広範囲をカバーすることになった。「世界に発信」などという言葉はあんまり使いたくないけれど、それを否定できないことも認めざるを得ない。でも違うのである。それはあくまで発信でしかないのである。情報には様々なものがあるだろう。単なる(と言ったら叱られるかも知れないけれど)商品を買って欲しいとの宣伝から、例えば緊急地震速報や津波警報などと言った「きちんと伝えなければならない」ものまで様々な位置づけがあると思う。そうした多様な情報の中で企業のリコール情報であるとか行政の発信する多くの情報などは後者、つまり「どうしても知らせなければならない」情報に該当するだろう。

 そしてそれは発信するだけでは足りない情報なのではないだろうか。必要とされる対象者にその情報がきちんと届き、しかも受信者がその情報を理解できて始めて、その情報は発信されたものとしての意味を持つのではないだろうか。理解されない情報は、発信されなかったことと同じである、そうした認識が私には発信者にきちんと理解されているかどうか疑問に思ったのである。

 恐らく発信者も、頭の中ではそのことを理解していることだろう。受け手に理解されてこその情報なのだと、恐らく了解はしているだろう。でも発信者の情報公開を伝えるテレビ中継や、それを解説しているニュースキャスターなどの話を聞いていると、どうもその辺がすっきりしないのである。
 それは例えば企業や官庁が、自前のホームページである情報を発信したことで、その企業や官庁のみならずそれを仲介している報道機関までが、あたかも当該企業や官庁の当該情報を「情報の秘匿がない」ことの免責要件のように理解し、マスコミもまたそれが情報公開の正しい姿勢でもあるかのように報道しているように見えてしまうからである。

 情報の受け手も様々である。若い人向けの情報もあれば、老人を対象にしたものもあるだろう。また時には津波警報にのようにすべての人に向けた情報もある。それは受け手に理解されるような発信があってこそ、「情報の発信」がなされたと呼べるのである。
 インターネットを多くの人が利用していることを否定はしない。それによって情報を得られる人も多いだろうことも否定はしない。でもこれほど携帯電話が普及したとしても、携帯電話を利用した情報伝達は携帯電話を所持している者にしか伝わらない。しかもその伝達すら、携帯電話のメーカーや機種によって通じたり通じなかったりするとも聞いた。ホームページだって同様である。どんなにパソコンが普及したところで、ホームページから情報を入手できるのはアクセスできるマシンを所持し、プロバイダーと契約を交わし、現実に利用している者に限られるからである。

 インターネットなんてまるで知らない者、知識として知っていても利用環境にない者、利用しようと思っていない者、停電で使えない者なんぞは、世の中にたっぷり存在しているのである。そこのところを情報の発信者はきちんと理解できていないような気がする。そのことは例えば、ホームページから必要な情報に到達するまでの経路がとても分かりにくいことなどからも分かる。

 もちろんそうした届きにくさの背景には、場合によっては「情報を訪ねる側」の熱心さの不足であるとか、訪ねる手法の研究不足などがあるのかも知れない。それでもなお私は情報公開とは名ばかりで、「情報は公開しているので私どもに隠し事はありません。だからその情報を的確に利用できなかったとしてもそれはあなた方の問題であって私どものせいではありません」との免責を得ようとしているような思いしか伝わってこないのである。そしてインターネットで検索の海を泳ぎ慣れているマスコミもまた、そこから必要な情報が入手できたことだけに満足し、それがどこまでネットの海を泳ぎ慣れていない人にまできちんと伝えられているか、伝わっているかなどの検証を頭から欠いているように思えてしまうのである。

 情報伝達の目的は、単に相手に届くことだけで事足りるものではない。特に「伝えなければならない情報」は、受信者がその内容を理解でき内容に沿った行動が起こせること、そして場合によっては情報の発信者自らが受信者に期待する行動の手助けができるようなシステムの構築までをも含んでいなければならないのではないだろうか。
 インターネットがどんなに広い周知を可能にするものであっても、発信することだけで思考が止まってしまっていたのでは広報の意味はない。ましてや知らせることだけで満足してしまうような広報のありかたなどは、とんでもない間違いではないかとさえ思ってしまうのである。



                                     2011.7.28    佐々木利夫


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