この程度のことが気になるなんて私のキャパシティも歳を経るにしたがって見る見る小さくなってきているなと感じてしまうけれど、最近の新聞投稿を読んでどこか納得できない思いに包まれてしまった。

 「『小遣い1年分』の落とし物。 ・・・駅構内の雑踏で1万2千円ひろい駅員に渡した。(駅員が)『・・・どうしますか?。落とし主に対して権利を主張できますけど』と言った。『落とし主に全額お渡しください』と答えた。『では権利は主張されない、ということで、よろしいですね』と念を押された。・・・落とし主が現れなかった場合は権利を主張できたのか、と少々悔やむちっぽけな自分がいた」(2011.3.11、朝日新聞、ひととき、主婦47歳)。

 私の気になった投稿内容はこれですべてである。読んだだけではなんの矛盾もないように思う。投稿者本人は「ちっぽけな自分」と評しているけれど、落とし主が現れなかった場合の思いはむしろ共感できるものすらある。私がこの投稿で気になったのは投稿者の思いについてではない。落とし物の届けを受けた駅員の対応についてであった。私がその場に立ち会ったわけではないから、落とし物を届けた時の状況がこの投稿にすべて表現されているかどうか確かめる術はない。だから私の抱く納得できないとの思いの背景には、ここに表現されていない事実を無視した単なる思い込みがあるのかも知れない。でも投稿者が抱いた「ちっぽけな自分」との評価から見て、恐らく状況はこの投稿に漏れなく示されていると思ったのである。

 それは駅員の片手落ちとも思われる対応についてである。遺失物法では、駅やデパートなどの管理者のいる場所での拾得物(落とし物)は原則として当該管理者へ届けることとしている(遺失物法4条2項)。だから投稿者が駅員に届出て駅員がそれを受理したことは当たり前のことである。
 ところで拾得者には当該拾得物が遺失者に届けられた場合の報労金の請求権と、3月以内に遺失者が名乗り出なかった場合の当該遺失物件の所有権の取得(民法241条)という二つの権利を有しているのである。

 その二つの権利のうちの一つを駅員は意識的かもしくは無意識にか、拾得者に告げることをしなかったのである。権利なのだから当然に放棄することは可能である。だから投稿者の「ちっぽけな自分」を感じた意識が、権利放棄をしたことに対する後悔であったとするなら私には駅員に対して何の違和感を抱くことはない。だが、この投稿によるかぎり、駅員は遺失者が表われた場合に拾得者が請求できる報労金(通常は5%〜20%、本件のような管理者が中間に入った場合はそれぞれその半額、遺失物法28条)については、その権利を行使するかどうかを尋ねているものの、もう一つの拾得者が現れなかった場合その拾得物件を取得できる権利についてはなんら教示していないのである。

 投稿者が落とし主が表われなかった場合の当該落とし物を自分のものにできる権利を放棄したことについての後悔の念を、「ちっぽけな自分」と評しているものでないことは文面から明らかである。なんたって駅員は「落とし主に対して権利を主張できる」とのみ伝え、拾得者は「落とし主に全額お渡しください」と答えているからである。そして駅員はこの返事に対してあろうことか「権利は主張しないことでいいですね」と念を押し、あたかもすべての権利を放棄したかのような場面を作り上げてしまっているからである。

 少なくとも駅員は報労金について権利をどうするかを尋ね、拾得者がその権利は放棄するとの意見を述べた次に、「では落とし主が現れなかった場合の権利はどうしますか」と尋ねるべきだったのである。それは、報奨金の請求については落とし主に主張するまでのことはないと思うことは常識として理解できないではないが、その落とし物が駅の所有物になることまで通常承認するかどうかはかなり疑問だからである。

 つまり落とし物を拾って届けるという行為の背景には「ネコババ」することへの罪の意識も存在するだろうけれど、それ以上に「落とした人が困っているだろう」との気持ちが強いからなのではないだろうか。だから交番などへ届け、その品物が持ち主に戻ることを願うのだと思うのである。そしてその延長に、そうした結果落とし主は落とさなかった状態に戻ることになるから、落とし主の感謝の気持ちとして拾ってくれた者へ礼を述べたり場合によっては薄謝を呈することになると思うのである。だから普通の場合は「権利として報労金を請求する」などの気持ちを持つことは少ないのではないかと思う。

 それは例えば前を歩いている人が何かを落とし後ろを歩いている人がそれに気づいたとき、「落としましたよ」と声をかけ拾い上げて渡し、落とした人が「すいません、ありがとうございました」と感謝の気持ちを述べ、それで完結するのが通常であることを私たちが暗黙のうちに了解していると思うのである。中には謝礼を要求する人がいないとは思わないけれど、そうした場面に報奨金の請求などあまり起きないだろうと思う。そうした気持ちの延長に、「落とし主の落とし物が届くのなら謝礼など要求しない」というのが普通の人の普通の感情があり、そうした気持ちが本件の場合も届けた駅員の「どうしますか」に対する返事になったのだと思うのである。

 だがその返事には、落とし主が表われなかった場合の権利にまでそのまま拡張されて含まれるものではない。落とし物は落とし主があらわれないときは届出を受けた者の所有になる。つまり一般的には警察であり本件の場合は駅に帰属することになっている。たとえそれが財布だろうが傘だろうがである。でもそこまでの意思をこの例における「落とし主に全部渡してください」の中に忖度することは普通はできないのではないだろうか。「謝礼はいらない」ということと、落とし主の現れない現金入りの財布が駅の所有に帰することとはまったく別なことではないかと思うからである。

 だから私は駅員は「謝礼を要求するか」と「持ち主が表われなかったときにどうするか」の二点についてきちんと拾得者に確認する対応が必要だったと思うのである。そしてその事績は拾得者の署名を求めた上で書類で残しておく必要があると思うのである。にもかかわらず駅員は口頭で、しかも片方の権利を告知したのみで済ませてしまったのである。そうした行為はまさに拾得者に対する権利侵害になっているのではないだろうか。

 そして老婆心ながらもう一言。駅員は口頭だけで済ませているけれど、それだけではその拾得物が確実に駅で適法に管理されるかどうかのチェックができないという問題が残る。
 むかし私たちの職場に、法的な慣習としての「警察官は嘘をつかない」という不文律みたいなものがあった。つまり警察官も含めた公務員は法を遵守するのが当然なのだから、けっして嘘をつくなどの法に反した行為はしないという意味である。それはまさに「公務員は決して違法な行為はしない」にまで拡張される思いでもあった。だがそんな当たり前のことすら今の世の中に通用しなくなっていることは、毎日の報道がいやというほど知らせてくれることでもある。警察も検察も、場合によっては裁判官ですら嘘ををつくことがあるからである。

 本件でも、届出を受けた駅員がその落とし物をそのまま着服してしまうことだって考えられるのではないだろうか。書類を書くだけでそうした不正を完全に防止できるとは限らないだろう。遺失物法は拾得者から請求があった場合にのみその事実を書面にして交付することになっているけれど(14条)、少なくとも届出を受けた事実と二つの権利を主張するかどうかについての確認事項を書いた書面くらいは必ず交付するようにする必要があると思うのである。そうすれば権利放棄についての確認漏れや駅員も含めた届出を受けた者の不正などが防げるのではないかと思うのである。
 そしてそうすることで、場合によってはふっと湧いた出来心みたいな誘惑じみた犯意を防止する効果も期待できるのではないだろうかと、まさに老婆心ながら思ったのである。



                                     2011.4.1    佐々木利夫


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落とし物と権利放棄