私の経歴は高校を卒業して税務の職場に入りそのまま定年を迎え、その延長で現在は税理士稼業をなりわいにしている。税務の職場にも滞納整理であるとか総務関係など様々なセクションがあるから、全部の職員に共通しているとは言えないけれど、一般的に言って「会社や商人に対する税務調査」が一番理解しやすい仕事内容だろう。そうしたとき、領収書は私たちに必ずといっていいほどつきまとう書面であった。
私たちの役目は、つまるところ税法に従って計算されたとおりの税金を納税者が自ら申告し納税することを担保することにある。税金にも種類があって、酒税ならば酒の製造高によるだろうし、物品税なら課税物品の取扱高や製造高、印紙税なら特定の文書の作成が課税対象となる。だから一概には言えないのだが、会社や商人に向けられる税金の多くは「利益」に対する課税が基本にある。そうした中で、納税者が誘惑に駆られるのが可能な限り少ない納税で済ませられないかとの思いであり、そうした意味で税務職員の使命はそうした誘惑に負けた納税者との攻防にあるとも言えるだろう。
ところで、税金の多くは利益に対して課税されると書いたが、利益は単純に二つの要素から計算される。呼び方には色々あると思うけれど、収入・売り上げそして費用・経費の二つである。そして利益はこの二つの差額として計算される。税金を少なくするには利益を減らすしかないが、そのためにはこの二つのいずれかもしくは両方を操作するしかないのである。つまり収入を減らすか費用を増やすか、両方ともやるかしかなく、かつこの二つの操作だけで足りるのである。
こうした場面に登場するのが領収書である。領収書とは代金を支出した側に向って受領した側が発行する証明書である。それは一般的にはその支出が事実であったことの証拠として理解されている。収入から控除される費用もまた支出の一種であるから、その領収書は支出を事実として証明する書類ということになる。だから、税務署の調査ではその証拠を示して支出の正当性示すことが必要になる。だから仮に領収書のない費用があったとすれば支出の正当性そのものが疑われて、場合によっては費用であることを否定されてしまう可能性もでてくる。
これは別に税務調査だけに起きることではない。例えば民間会社や官庁などであっても、金が動くところには必ず組織としてのチェックを経なければならないことが多いから、交際費が支出された事実であるとか消耗品などを購入した事実などを証明する書類の提出を求められることになるだろう。そう考えると、領収書は決して税の場面にだけ現れてくるのではなく、世の中の金の動きに際しては、必ずと言ってもいいほど顔を出してくる。そしてそれは基本的に事実の証拠であり、それはそのまま真実であることの証拠にまで持ち上げられる証明になる。
さて、この真実を示す証拠という意味で、領収書は一種独特の魔力を持たされることになる。この紙切れは「金を渡しました」、「その金を受け取りました」を示すものであり、その事実を示す領収書は真実の証拠であると位置づけたが、それは決して領収書のすべてを表しているものではない。領収書は時に真実の仮面を被ったふりをしている場合も多々あるからである。領収書に託されている取引が真実であることの裏づけは、その当事者間での取引そのものが真実であることが前提であり、当事者が真実であることを担保してはじめて成立するのである。
ところが単なる紙片でしかない領収書は、いったん取引の場から離れてしまうと、とたんに一人歩きを始めてしまう。それこそが魔力の源泉である。企業が下請けや頻繁に利用する飲食店などに、金額の記載や取引内容のない白紙の領収書を数枚、数十枚と求めることがある。また過大な金額を請求させてその代金を支払い、その領収書を受け取る一方で過大部分を裏金としてバックさせたり相手に保管させておいたりもするからである。なんなら取引などしたことのない相手からの領収書を、第三者の手を経て廉価で手に入れることだって可能である。それは道に落ちていた使い捨ての領収書を拾うこととも同義である。
こうした領収書は、支払っていないにもかかわらず、あたかも支払いがあったかのような状況を作り上げることができる。つまり一枚の領収書が費用としての支出を証明し、その分だけ利益を小さくすることができることを意味している。そしてそれは税の場面ではそのまま税金を少なくできることを意味しているし、会社や官庁の収支報告の場面では、裏金として秘匿された支出や個人的な利益として運用できることを意味しているのである。
そうした違法な行為に領収書が必須になるわけではない。ただ支出の事実をチェックする立場にある者が、支出の証拠として領収書を求めることが多く、領収書を示すことによって簡単にその事実を認めてもらえるという慣習が定着している。そしてそうした習慣がいつの間にか領収書の神通力もしくは魔力として世の中に通用してしまっていることが背景にある。
つい最近、新聞に掲載された話である。国会議員もそうかも知れないけれど、北海道の議会議員にも政治資金としての流れと政務調査費の流れがあり、それらはともに収支計算をして選挙管理委員会などに毎年報告しなければならないことになっている。そしてその収支が正しいことを裏付けるため、支出に関しては領収書の添付が義務付けられている。ここでも領収書が支出の事実を証明する手段とされているのである。ところが議員の中の数人から、二重計上が発覚した。当人はいずれも単なる錯覚だったと申し合わせたような言い訳をしているけれど、一つの支出には一枚しか存在しないはずの領収書が、コピーされて二つの資金の流れに重複して計上されていたのである。
「領収書があること」がそのまま支払ったこと、つまり費用の支出があったことの証明になるような錯覚が、世の中にまだまだ残っていることに改めて気づかされた事件であった。
2011.6.4 佐々木利夫
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