政治家も識者もそれぞれが「国民の意思」を根拠にして自らの意見の正当性を主張する。そのことは別に変ではない。変ではないけれど、どのようにして国民の意思を確かめたのかを説明しないまま自説の裏づけにしていることが変なのである。そうした言い方が、たとえばテレビのワイドショーの登場人物が、「国民だってそう思うでしょう・・・?」などと、誰とも知れぬ相手に同意を求めるような言い方をする場合なら、そもそもそうした番組での発言はおおむね信頼されていないのだからそれほど弊害はないだろう。同意を求めているのは単に「自分の意見」だけだと心細いので、いかにも国民の意見が背後にあるかのように装うことで誤魔化そうとしている姿勢が見え見えだからである。しかもそうした行為について、出席者の誰もが「いかにもその通り」みたいに頷くだけで、「それはちょっと違うんじゃない」だとか、「私の意見は少し違うけど・・・」などと反論する人の一人もいないことが信頼できない事実を裏付けている。

 でも政治家であるとか、例えば何らかの諮問委員会みたいな構成員になるような人が、いかにも自信たっぷりに国民を味方につけているかのように自説の裏づけに国民を持ち出すとなると、どこかで「ちょっと待ってくれ」と言いたくなる。ましてや政治討論などで、対立する意見の双方が共に国民を持ち出して議論を戦わし、対立したままで終わってしまうような場面などを見ていると、いったい彼らの主張する国民の意思とはどこにあつたのだろうかと思ってしまう。つまり、互いに相手が引用する「国民の意思」を否定しあっているからである。

 残念なことに、国民の意思を示す場面は日本の制度の下では難しくなっている。確かに選挙は一つの意思表示である。だが間接選挙の下では、個別のテーマについての国民の意思を表示する機会はなくなってしまった。選挙では政策ごとの選択をする機会はなくなり、つまるところ私たちには「立候補者たる一人」を選ぶしか方法がなくなってしまっているからである。つまり、国民の意思は「誰に政治を任せるか」でしか示すことができなくなっているのである。私たちは本来個別であるべき物事の判断や選択を、一人の人物のトータルとしての意思に委ねることでしか具体化することができないようなシステムを選択してしまったのである。

 もちろん古代ギリシャ時代のように、個別の判断や採否などについてすべて一種の国民投票のようなシステムを採用することは、理論的には可能であろう。しかし、費用や効率や手順などでそうした方法が著しく困難であることは理解できないではない。しかも古代ギリシャの直接選挙にしたところで、奴隷を除く少数の権力者による投票だったのだから、「奴隷は国民でない」を前提とするならともかく、果たしてその結果が国民の意思と呼べるかどうかは疑問である。

 間接選挙によってどこまで国民の意思が反映できるのかは難しい問題である。投票する私は、私個人としての意思を持った一人である。だが立候補者もまた、彼自身としての意思を持つ一人の人間でしかない。私の意見と彼の意見とが完全に一致することなど恐らくあり得ない。にもかかわらず、私は立候補している誰かに一票を投じなければならない。投票しない、または立候補者以外の人物に投票するという方法をとることもできないではないけれど、それらの選択はつまるところ「国民としての意思を表示しない」ものとして無視されてしまうことになる。それはそうだろう。立候補していない者に投票したり、白紙や棄権で意思表示をしないところに、賛成か反対かの判断もまたできないからである。

 立候補者が例えば「原発反対」を唱え、同時に「死刑廃止」を主張しているとしよう。そして私は原発には反対だけれど、死刑制度は維持すべきだとの意見を持っているとする。私は彼に投票すべきだろうか。もし仮に投票してその立候補者が当選したとしたら、私は彼の主張する原発反対の意思と死刑廃止の意思の両方を付託したことになるのだろうか。もちろん「原発反対」と「死刑存続」を表明している立候補者が他にいるとすれば私はその人に投票したかも知れない。それよりも何よりも、私自身が私の思いを主張して立候補することだって可能なのだから、その道を選ぶことだってできるし保証されてもいる。

 でも現実には、私には投票日に何かの決断によって特定の候補者に一票を入れるしかない。国会議員として立候補している彼に委ねるのは、原発と死刑制度の二つだけではない。国政に関するあらゆる選択肢の全部である。もちろん被選挙権の保証はあるけれど、それを選択することなど事実上不可能である。そして投票の動機となるのは、「原発」問題だけかも知れないし、場合によってはなんとなく支持している政党に所属しているからだとか、更には「個人的な好み」による場合だってあるかも知れない。

 また私が原発反対を表明する立候補者に投票し彼が当選したとする。だがそれで私の意志が実現するわけではない。たとえば彼の所属する政党としての意見が原発賛成にあり、派閥か党議拘束かはともかく政党の一員たる彼の国会での立場は賛成に回る。そのとき私の意志はどうなってしまうのだろうか。私が投票した彼が国会で「反対」の意思表示をし多数決で否決されたのなら、それはそれで一つの結論として承認できないではない。でも彼が反対意思を表明しなかった場合、私の「反対」としての意思は表示されることなく無視され消滅してしまうことになるではないか。少なくとも私の投票だって国民としての一票である。それがなんの断りもないままに雲散霧消してしまうのである。しかも「国会の議決は国民の意思としての賛成である」との結論の下にである。間接選挙の欠点はこんなところにも存在しているように思える。

 だとすれば、私たちはどんな方法で私たち自身の思いを実現していったらいいのだろうか。「これから必要なのは『実感のある政治』です。中央からいきなりシステムを導入するのではなく、誰が何をやっているのかが見える範囲で、一般の人たちも加わって色々なことを決めていく、そうでないと、原発や環境の問題は解決できません」(中村敦夫、元参議院議員、朝日新聞、2011.6.16)は確かに正論だと思う。ここでは「国民」に代って「一般」の語が使われているけれど、同じような意味だと理解してもいいだろう。それならば、「誰が何をやっているか見えるシステム」や、「一般の人たちも加わって色々なことを決めていくシステム」は、どんな方法を採用することで実現していったらいいのだろうか。

 そうしたシステムの具体的な構築方法についてなんにも触れることなく、いきなり「一般の人たちも参加して決める・・・」などと言われたところで、一般とは国民全体を指すのか、それとも利害関係を有する範囲内の人々を指すのかさえも彼の意見では示されていない。彼の意見は「・・・どんなエネルギーを使うか、国民がその決定に参加する権利を持つべきです」の一文で締めくくられている。「国民が決定権を持つべきだ」とする表現くらい私にだって、いやいや世の中の誰にだって使える言葉である。投稿者も長い政治家生活を経験しているのだから、少なくとも「国民が持つ決定権」の具体的な示し方くらいは自らの意見として提言すべきであると思う。そうしないと、政治家も識者も、学校の先生も畑を耕している農家の人々も、こぞって「国民、国民」をあげつらって自らの正当性を主張することのみに拘泥し、そのことがそうした意見が逆に国民の意思から離れていくこと、そして国民から信頼されなくなっていくパターンの定着を助長させることにしかなっていかないように思える。

 どんな意味で使ったのか、どんな場面で出てきた言葉なのか分からないけれど、自民党の石原幹事長が民衆の集団行動を評して「集団ヒステリー」と言ったとの引用記事を読んだ(松本 哉、6.11の反原発デモ主催者、前掲朝日新聞)。自らの都合のいいように「国民」の定義を使うことのできないようなシステムの提言なり構築をしていくことも、私たちや政治家を含めた一つの仕事ではないだろうか。そうしないと、権力者の気に食わない意見はすべて「集団ヒステリー」の表れになってしまい、自らの主張はすべて「国民の意思」によるものだとの皮膜に糊塗されてしまうのではないだろうか。
 「なんでもかんでも国民投票」は無謀な思いだとは思うけれど、憲法改正にしか適用されていない現在の国民投票の制度について、もう少し考え直してみる必要があるのではないだろうか。



                                     2011.6.29    佐々木利夫


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選挙と国民の意思