昨年の暮れになるけれど、新聞にこんな一言で始まる一文が載っていた。
 「正面切った証明用写真よりも、無造作なスナップ写真のほうが、ずっとその人らしいということがある。」(2010.12.12、朝日新聞、本を開けば、サラリと書いた人物像の味、コラムニスト 中野 翠」。

 特に抵抗なく読み進んで行って途中で少し気になった。この一言は一見もっともらしく聞こえるし、なるほどと思えるような気もする。ところが筆者がこの文章を「・・・ということがある」と結んでしまったことで、結局何の意見も示していないのと同じ結果になっているのではないかと思ったのである。つまり、「ということがある」と言うのは、同時に「そうでないこともある」ことを並列的に述べていることと同じではないかと思ったからである。

 「詐欺師が詐欺師らしく見える」こともあるだろうけれど、「らしく見えない」ことだって世の中にはたくさんあるだろう。それは犯罪者にかぎるものではなく、例えば「泣き虫に見える」、「短気ですぐ怒りそうに見える」、「すぐ金を貸してくれるような情け深い人に見える」など様々な場面で人は相手を観察して判断するだろうからである。
 そしてそれが時として当たっているかも知れないけれど、まるで当たらない場合のあることも現実である。「人は見かけによらない」とする俚諺もまた、私たちが学んできた人生からの教訓だからである。

 だとすれば筆者は、冒頭に引用した一言をどんな意味で掲げたのであろうか。恐らくこの一言に続けて書かれている「・・・愛しているライターがサラリと書いたエッセイにはまた格別の味がある。ごく短い文章でも相手の人物像が断然生き生きとクッキリと、そして好もしく浮かびあがってくる。」を引き出すための導入部だということの理解ができないではない。

 文章を読んでいくと筆者である彼女は、引用の対象者である「彼」の素顔というか本当の姿というものを事前に知っていることが前提になっている。「その人らしさ」をどのように理解するかはともかくとして、少なくとも彼女は「無造作なスナップ写真」なり「ごく短い文章」以前に、対象者の「その人らしさ」を知っていることを示している。だからこそスナップ写真や短い文章に、その人の「その人らしさ」を重ね合わせることができると言えたのである。写真から「その人らしさ」を理解したのではない。既に知ってる「その人らしさ」に写真や文章を重ねただけにしか過ぎないのである。

 私には「・・・無造作なスナップ写真のほうが、ずっとその人らしさが表われる」と断定した方が、そうした断定を承認するかまたは否定するかはともかくとして、一つの意見として成立するように思うからである。つまり、そうした断定の方が一つの意見をそこに示したことになり、冒頭のようなどっちつかずの無意味な文章にはならなかったのではないかと思えたからである。

 そして私は、「その人らしさ」というのは一体何なのだろうかと思ったのである。例えば私がここにいる。それは事実である。でも私にとっての私らしさとは何なのだろうか。そうした「私にとっての私らしさ」とは私固有のものなのだろうか。妻の目から見た「私らしさ」や子供や知人などの見る「私らしさ」と「私にとっての私らしさ」とは同じものなのだろうか、それとも異なるものなのだろうか。「私らしさ」の中にある「私」は個人としての「私」ではあるけれど、「私らしさ」とは一つの評価を示す言葉である。だとするなら、それは「私」が見た内側からの「私らしさ」に、もう一つ「他者の目からの私らしさ」を加えたトータルの「私らしさ」を意味するものなのだろうか。だとすれば「他者の目」は単数ではないことになる。

 そうすると「私らしさ」とはとりとめのないまでの多様化へと突き進むことになってしまう。そして引用した文章の筆者が「特定のかれ」の写真に対して「その人らしさ」を感じたと言うことは、そのまま筆者固有の多様化の中にあるたった一つの「その人らしさ」でしかない。それはトータルとしての「その人らしさ」とどこまで、そしてどんなかかわりをもっているのだろうか。
 ところで人はその人に抱いた「らしさ」の意識を、自らを傍観者としての立場に置いた多くの他者とどこまで共有、もしくは共感できるのだろうか。こうした疑問はつまるところ「自分らしさとは何だろう」というこのエッセイの表題へと繰り返されていくのである。こうしたトートロギーに、果たして答えは存在するのだろうか。私はどこまで「私らしい私」なのだろうか。



                                     2011.1.21    佐々木利夫


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「その人らしさ」とは