東日本大震災が起きたのが3月11日で年度末が近かったこともあり、卒業式ができないままに卒業生が散り散りになってしまった学校も多かった。震災から5ヶ月、落ち着いてきたというにはまだまだの状況だけれど、少しは気持ちにゆとりが出てきたせいか遅ればせながら卒業式をやろうという学校が最近出てきているようだ。卒業式という式典と卒業の事実とは無関係とは言いながら、いまさらやって何の意味があるのかとへそを曲げる必要もないだろう。
 津波に家を流され学校も壊された生徒たちが避難と生活のためにそれこそ全国に散っているのだから、亡くなった同級生を偲び分かれた仲間と再会することにだって大きな意味があるだろうからである。

 ところでそうした思いとは別に、そうした遅れた卒業式を報道しているテレビを見ていて、なんとなく気になったことがあった。式典の意味にもセレモニーたる進行にもまるで関係ないのだが、証書を受け取る生徒の行動に決まったパターンのあることが気になったのである。それは生徒が校長先生から証書を受け取る場面で、なぜかどの生徒も証書に向って両手を同時に出すのではなく、左右どちらが先だったか忘れてしまったが、例えば右手でまず校長先生が差し出している卒業証書に触れ、ワンテンポ遅らせてから左手を添えて両手で証書をつかむのである。

 特に気にもしないで映像を眺めていたのだが、何人かの生徒が続けざまに同じようなパターンを示したこと、そして別の卒業式のニュースでも同じようなパターンが繰り返されていたのを思い出して、こうした受け取り方の意味はどこにあるのだろうかと気になってしまったのである。

 卒業式は別れの儀式ではあるが、卒業証書の授与式でもある。すっかり昔のことなので忘れてしまっているが、校長先生や教育委員長やPTA会長などの冗漫な祝辞、後輩からの送る言葉や卒業生代表による答辞、紋きり型の文章が並んだ祝電の披露や校歌斉唱などなどが、特に感激もないまま流れていったことが思い出されてくる。そうした中での証書の授与である。私たちの頃は中学も高校も含めてけっこうな数の生徒がいたので個人で受け取るのではなく、卒業生全員の名前が呼ばれた後に代表が一括して証書を受け取っていたように思う。今は生徒数が少ないからか、それとも一人ひとりの卒業を大切にとの思いからなのか、個別に手渡しすることが多いようである。

 私には小中高で卒業証書を個人として受け取ったような記憶は残っていないけれど、こうした証書を渡すような儀式は職場に入ってからでも、例えば転勤のを命ずる辞令の交付式であるとか、または職場内の表賞式、研修などの修了式などで似たような場面に遭遇することは、長い公務員生活の中でそれなり経験している。また長じては逆に辞令や表彰状などを渡す立場になったことだってある。

 儀式なのだからある程度のパターン化は必要であろう。卒業証書は校長が生徒に与えるもので、生徒はそれをうやうやしく受け取るものなのだとの一種の不文律がある。だから校長は一段高いところに位置し、受け取る生徒は壇上の校長のもとへと上がっていくことが多い。校長は証書に書かれた生徒の名前と卒業の事実を証した文言を読み上げ(大体は『以下同文』と省略されることが多かったが)、その証書を180度回転させて生徒が読めるような向きにして差し出す。生徒はそれを一礼して受け取るのである。

 最近はこうした上意下達式のセレモニーは流行らなくなっているらしく、例えば渡す側が受ける側へ歩み寄るような対等性を意識した方式へと変りつつあるようだが、こうした校長が偉くて生徒は従う側だという上意下達式の式典も、その是非はともかくセレモニーとしての意味が分からないではない。

 でもそうした上意下達を前提にしたとしても、生徒の証書を受け取る手の添え方のタイミングのずれを解釈するための手助けにはなりそうにない。最初から最後までそのことを気にしながら見ていたわけではないし、卒業式の全部が放送されていたわけでもないので、証書を受け取る全員がタイムラグ方式だったかどうかは分からない。また、式典の進行を準備した先生などがそうしたタイムラグ方式の受け取り方を指導していたのかどうかについても分からない。

 考えるに一つには美意識が底流にあるのかも知れない。つまり、セレモニーなのだから、その式典が周りで見ている同じ卒業生仲間や後輩や参列者などの目に、流れるように美しく見えて欲しいとの願いが卒業生にも式典の主催者にも、更には参列している人たちにも、潜在的に存在しているからなのかも知れないと言うことである。つまりは、卒業証書を受け取る場面が、両手を同時に出すよりも左右の手を多少ずらして証書に触れる流れのほうが、見ていてスムーズであり格好がよく絵になると多くの人たちが感じるからなのだろうかということである。

 でも本当にそうなのだろうか。私にはこんなことくらいしか思いつかないけれど、それでもなお本当にそうしたことが格好がいいと思うのだろうかと疑問を感じてしまう。もちろんそれ以外に私の考えもつかないような意味があるのかも知れない。例えば日本は仏教が浸透しているので左手は不浄の手だから先に出してはいけないとか、両手を同時に出すのは(私には知識がないけれど)失礼に当たる行為なのだとか、両手を同時に差し出す行為は戦いの宣告になるなど、別の意味があるのかも知れない。

 こんな思いを抱いてから、私の経験した過去の様々な「賞状のような書面を授与する場面」を思い出してみた。すると手をずらして証書を受け取るような行動パターンは、今回の被災地での遅れた卒業式で「たまたま見かけた行為」ではなく、もっと広く潜在的に人口に膾炙しているように思えてきた。もしそこに何らかの意味があり、その意味は社会人として当然知っていなければならないような内容を持っているのだとしたら、私はこれまでの長い人生をそんなことも知らずに過ごしてきたということになるのである。


                                       2011.8.11    佐々木利夫


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卒業証書授与式