「みんな仲良く」はいじめ社会への対処のみならず、もしかしたら世界平和に及ぶまでの理想的な考えのように思われている。恐らく究極の理想として、そうした世の中が実現するならそれで多くトラブルが解決するであろうことを否定するものではない。
 でも本当にそうなのだろうか。はたして人がある人(人でなくても動物でも物でも、場合によっては人種とか国とか、更には音楽とか芸術などの抽象的な思いでもいい)を「好き」になることは理想であり、反対に「嫌い」になることが人間失格みたい言われることは人が生きていくうえでの正しい道筋を示してるのだろうか。

 私には「好きになること」も「嫌いになること」も共に人間の本質であるように思えてならない。人が人として成長していく過程とは、他者を区別することから始まってきたのではないかと思えるからである。そして他者の区別とは、そのままその他者に対する評価でありそれは結局好きか嫌いかに表われてくるのではないかと思うのである。そうした好嫌の評価は、例えば言葉を代えて「信・不信」であるとか更には「好悪」など多様な表現にもつながってくるだろうが、つまるところは他者に対する我が身にとっての評価であり、その背景には自身の安全をどこまで委ねられるかにあるのだと思う。

 そうした評価をしていく中で、人は人として生き延びてきたのではなかっただろうか。生まれ、育ち、そして老いる。そうした過程の中で人は常に他者と係わらずには生きていけなかった。保護してくれる者かそうでない者かの区別は、自らの生存にとっての必須の選択である。間違いの結果は確実な死でしかない。そうした必須の選択を、私たちは人類の誕生から現在に至るまで学び続けてきたのだし、これからも学び続けることがこの世に生き抜いていくための宿命でもあるのである。

 「みんな同じように好き」だと言いきれる人がこの世に存在しないとは断言できないけれど、世に聖人や偉人と言われているような慈愛に満ちた人たちにだって、きっと「好きの程度」があるのではないだろうか。
 「大好きだけ」だとか、「好きの程度に差はない」などと言う人がいたら、私がそうでないことを基準に他人を評価することそのものに線引きの妥当さを認めるわけではないけれど、嘘ではないかと思ってしまう。

 「大好き」と「そうでもない」、「なんとなくそりが合わない」、「どちらかと言うと虫が好かない」、「できれば付き合いたくない」、「少し嫌い」、「やっぱり嫌い」、そして「大嫌い」まで、人は多様な評価を相手に与えて生活しているのではないだろうか。
 もちろん「嫌い」に仮面をかぶせて、「皆同じように好きです」みたいな顔をすることは可能である。ただ、可能であることと仮面の下の顔を見せないこととが同じ意味を持っているわけではない。

 人の好き嫌いを考える時、ふと思い出す小説がある。森鴎外の「阿倍一族」である。領主忠利が自らの死に当たって家臣18人の殉死を認めた中に、忠臣であるはずの阿倍弥一右衛門を含めなかった。誰もが彼が殉死すべき立場にあると認めており、領主もまた彼が命惜しまぬ者であり殉死を苦痛としない者であろうことを理解していた。それにもかかわらず領主は彼を指名しなかった。こうした周りからの思惑や自ら意思などとの葛藤から、阿倍一族は破滅への道を歩かされることになる。

 何故か。どうして忠利は彼を殉死の仲間に加えることをしなかったのか。答えは単純である。領主は阿倍弥一右衛門が嫌いだったからである。ただそれだけである。優秀で熱意ある家臣と認めつつ、日頃からの主君を諌める言動から「どこか気に食わない」、「どこか煙たい」との思いを抱いていたからである。それだけのことである。「煙たい奴に武士の本懐である死など認めてやれない」、それだけのことでこの純粋で忠実な家臣は一族もろとも追い詰められていき、当時としてはもっとも重要であった家系そのものを投げ打って主家に歯向かって絶滅せざるを得ないまでに追いやられてしまうのである。

 殉死を認めるわけではないけれど、それ以前に主君の抱いた「どこか気に食わない」思いが一族の破滅にまで影を落としたことを「悪」として批判すべきなのかどうか、私には答えられないような気がする。因果を結びつけることは可能だろうけれど、それが果たして悪として認定すべき事柄だったのだろうかについては、むしろ否定的に解したい。

 人は進化の過程で敵を見分ける一つの手段として、「好き嫌い」の感触を自らに取り込んだのではないだろうか。そうした選択が時に誤った結果をもたらすことがあったかも知れないけれど、少なくともそうした選択のもとで人は生き延びてきたのではないかと思うのである。そしてもっとはっきり言うなら、好き嫌いの選択をしなかったなら、種としての人類は確実に絶滅していたのではないだろうかと言うことでもある。

 「好きになること」、「嫌いになること」は人間の生物としての根源に係わっているように私には思える。だから人間が人間として生き抜いていく以上、「みんな仲良く」は不可能であり決して実現しない見果てぬ夢でしかないのではないかと思う。
 ならば「みんな仲良く」に人類は際限なく近づいていけるのか。近づいていくことを目標にするのなら、それが際限のない道のりであったとしても、近づくという過程の中に人はどこまでも「みんな仲良く」を目指すことができるのか。それも私には難しいことだと思う。なぜなら「嫌う」ことそのものの中にも、人が生きていくことの本質的な意味が含まれていると思うからである。

 人がいつまで種として生き延びていけるのか、それは分からない。地球温暖化だの環境汚染、食糧危機や人口爆発などが、人類を数十年数百年の単位で破滅させることだってあるかも知れない。そんな短い期間では人類から争いが消滅しないであろうことは既に歴史が証明していることであるし、現在の世界の紛争があからさまに示している。
 仮にその期間を数万年、数十万年の単位で考えたとしても、人は「好き」と「嫌い」を両立させることでしか生き延びていけないのではないか、そんな風に私は思う。人はそうした相反する思いを進化の過程で生き延びる術、遺伝子として獲得したきたのではないかと思うからである。



                                     2011.1.18    佐々木利夫


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