日本語の持っている敬語や謙譲語の位置づけは、それほど嫌いではない。もちろん私自身どこまでこうした言葉の使い方がきちんとできているかどうかは甚だ疑問であり、恐らく及第点をもらうことなど難しいだろうことは予感を超えて実感でもある。だからいまさらこんなことを書く資格さえないのかも知れないけれど、日本語が丁寧語なり謙譲語を大切に育ててきたことは事実であろう。たとえそれが階級意識に根ざした、必ずしも妥当な発達でなかった過去や経緯を持っていたとしてもである。

 ところでつい先日の新聞にこんな記事が載っていた。
 「気持ち悪い、ございます乱用」(2011.7.6、朝日新聞、声、71歳男性)
 例えば「野良犬が走ってございます」と言う人がいたら、みんな、「そんな言葉づかいはおかしい」と笑うだろう。ところが区役所などのしかるべき立場にある人が、「と聞いてございます」とか、「と考えてございます」とか、「を予定してございます」といった奇妙な言い方を日常的にするのである。定年退職後、(
町内会などの役員として)区の会合に出るようになって、こういう言い方がひろがりつつあることを知った。「ございます」をつければ、住民に奉仕しているかのごとく見えるとでも思っているのか。・・・

 同い年の老人の投書だから特に共感を呼ぶところがあったのかも知れないが、投稿者の言う「気持ち悪い日本語」の使われ方が、なぜかこの言葉に限らずあちこちへと広がっていっているように思えてならない。そうした感じ方の要因となっているのは、投稿者の場合は出席した区役所か区議会での行政の担当者かまたは議員などの答弁からだろう。ところで私はこうした場に出席するような機会はほとんどないので、私の感じる「気持ち悪い日本語」はもっぱらテレビからになる。そして投稿者と同じように、国会答弁であるとか北海道や札幌市の議会でのやり取りの中継からであり、それに加えて例えば記者会見などにおける企業の責任者の答弁中継などからも同様のパターンが感じられる。

 そんな場では、答える側はどちらかと言うと低姿勢を示し、質問者に恭順の意を示すことでその場を切り抜けようとする意識が無意識に生じてしまうからなのかも知れないが、投稿者が感じたのと同じようにいたるところで「ございます」が繰り返されている。もちろんテレビで放映されることは答える側も知っているだろうから、その「ございます」が質問者に対する姿勢を示すために使っているのか、それとも質問者の背後にいて夕飯の合間にテレビを見ているであろう国民や市民の目を意識しての発言なのか、そこのところは必ずしもよく分からない。

 それでもそうした丁寧や謙譲の限度を超えた、誤用とも言えるような言葉遣いがなぜかこの頃は広がってきているように思えてならない。それは単に投稿者の掲げた「ございます」に限るものではない。例えば「・・・ところであります」だとか「所存であります」、「先生ご案内のとおり・・・」などなど、気になる日本語は気になることにお構いなくどんどん拡大していっているように思える。

 ただどこがどんな風に変なのか、そこのところをきちんと説明付けるだけの知識が私にないことが難点でもある。なんと言っても「変だと思う」と主張するだけで、正しい使い方はこうではないかとか、これこれこういう理由で変なのだとするような考え方などをどうもきちんと説明できないからである。その程度の異論なのだったら、そうした異論の生まれた背景がきちんと私の中で熟成され組み立てられるまでは、発信するのを避けるべきではないかと思わないでもない。

 それはそうなんだけれど、どうもこうした丁寧語、謙譲語に類した使い方が、そうした言葉が本来持っているはずの丁寧さや謙譲の気持ちを超えて、逆に作用しているような気がして直感だけでつい口を衝いてしまう。もっと極端に言うなら、そうした変な丁寧さは例えば慇懃無礼さであるとか、どこか相手を小馬鹿にしているような雰囲気を醸し出しているのではないかと思えてならないのである。それはもちろん私の勝手な思い込みが発端にあって、そうした思い込みが繰り返されるたびに少しずつ増幅していっているからなのかも知れない。

 国会や議会の答弁などは事前に質問と回答とがすりあわされていると聞いている。だからもしかしたら、質問する前から当該テーマに対して当事者同士の了解が成立しているのだから、互いの間に成立するであろう丁寧さやへりくだった気持ちなどが仮に浮き上がった状態で空転していたとしても、当事者にはそれが変だとは気づかないのかも知れない。なんたって今取り上げているテーマは、言葉としての主語述語とは無関係な次元にあるからである。つまり質問し回答する言葉のやりとり(質問と答弁)はすでに互いの了解事項なのだから、そうした以外の丁寧語や謙譲語として発する言葉は単なるセレモニーとしての時間つぶしの機能しかもっていないことを、これもまた互いに了解しているということであろうか。

 私にはこうした言葉のやりとりが単に「丁寧すぎる」、「へりくだり過ぎる」だけでなく、むしろ会話としての言葉が死んでしまっているように思えてくるのである。言葉は生きつつ変化していくのだと思うし、変化すること自体が生きていることを示しているのかも知れないが、日本語もまた先人が「言霊」として大切に育ててきたものであることに思いを巡らす必要があるのではないだろうか。そうした中で丁寧語や謙譲語も独特の日本語として生き続けてきたのだと思う。その大切な日本語が、こうしたやり取りの中で少しずつ無機質化していっているように感じられてならない。そしてそのことにまるで気づいていない当事者の無機質な会話が、私にはどこか寂しく感じられてならないのである。


                                     2011.7.22   佐々木利夫

 追記 今朝の新聞(2011.7.25、朝日)に、こんな記事が載っていた。
 「言葉浮くもの、だとすれば人と人の交わりの手段としては、不完全なものでしょう。情理を兼ね備えた言葉など不可能かも知れない。だがそれを補うのは態度ではないでしょうか。震災とそれに続いた原発事故をめぐって、政治家をはじめ保安院、科学者、言論人らの様々な言説が飛び交うこととなりました。深刻なことが話されているのに、態度はどこか他所事(よそごと)のようであったり、根拠のない楽観を浮かべている。」(佐伯一麦→吉井由吉 往復書簡)。
 私は無機質化のように感じたけれど、言葉とはそもそも本質的に「浮いていくもの」なのだろうか。



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丁寧語の無機質化