「てっぱん」とは現在放送している、NHKの朝の連続ドラマのタイトルである。毎朝このドラマを見終わってから出勤するスタイルは、税理士事務所を開業して10数年の習慣になっている。半年ごとに新しくなっていくこのドラマは、現在は尾道で母を亡くして養女として育てられた女の子が成長して、大阪の実の祖母のもとでお好み焼き屋を営みながら大人になっていく物語である。時計代わりに見ているような傾向もあるので、そんなドラマの筋立てにとやかく言うつもりはないのだが、今週の流れが少し気になった。

 今週のテーマは19歳になったその少女と一人の男の物語である。男は「駅伝君」と呼ばれ、挫折しながらも走ることに青春を賭けている。二人は互いに意識はしているものの告白するまでにはいたらず、したがって恋人同士というわけでもない。そんな折、男は大阪のマラソン大会に出場することになる。出場を前にして男は女にこんな風に告げる。「優勝したら伝えたいことがある・・・」。それを漏れ聞いた周りの人たちは、「付き合ってほしい」との宣言ではないかとか、もしかしたら「プロポーズだ」と騒ぎ立てている。もちろん女にも男の内心、つまり男が何を伝えたいのかを知ることはないが心は騒いでいる。

 男の伝えたい思いが何なのか、もちろん視聴者にだって分かるはずはない。金曜日(11日)の放送であろうことか男は最後の最後で先頭ランナーを追い抜いて優勝する。あんまり安易に優勝してしまったので、逆にドラマが平凡になってしまったように思うのだがそのことは別にどうでもいい。
 私がどうにも気になったのは、男の放った「優勝したら伝えたいことがある」の一言に対してであった。その言葉はあまりにも女に対して軽い言葉、もっと言うなら女を馬鹿にした言葉のように思えたからである。

 男は「必ず優勝できる」ほどの実力を持っていたわけではない。それは本人自身がきちんと理解していることであり、彼の周りの人たちの思いもまた同様である。だからこそドラマになるのではないか、と人は言うかも知れない。女への思いが男を奮い立たせ優勝への追い風になる、こんな筋立てこそが純愛ドラマの成立の要素になるではないかと思うかも知れない。そうしたドラマの盛り上がりを私も否定はすまい。だからこそ実力以上の力を発揮することができたのだとする、そうした青春の思いをドラマとして安易だと否定することはないだろう。

 でも、それでもなお私は男のこの一言は身勝手すぎるのではないかと思うのである。そんな言葉は自分の裡にしっかりと秘めておくべきであって、「決して女に向って言ってはならない一言」だったと思えてならないのである。「優勝したら告白する」との思いを男が抱くことを否定したいのではない。そしてその思いが力となって優勝を遂げたとするようなシナリオにまでどうのこうのと言いたいのではない。

 このドラマは男を優勝させることにした。優勝したところで金曜日の放送は終わり、次の土曜日そして次週からの放送は金曜日の午後2時46分に起きた日本での観測史上最大のマグニチュード9.0と言われる関東東北大地震の報道にかき消されて未放送になっている。だからその「伝えたいこと」がプロポーズなのか、単に「好きだ」の一言なのか、それともまるで無関係なことなのか、ドラマを見ている者には分からない。でもドラマの内容からするなら、恐らく二人にとっての重い一言であるだろうことは違いないように思う。

 そんな状態で女はこの「伝えたいことがある」の言葉をどう受け取ったらいいのだろうか。そしてもし仮に男が優勝できなくて、その言葉の意味を知ることができなかったとしたら、女はその事実をどう受け止めればいいのだろうか。男はそれでいいかも知れない。例えばプロポーズの思いだったとしても、自分自身で決めたハードルに自らが達しなかったことで、そのプロポーズをあきらめることはそれはそれでいいだろう。でもその「いいだろう」は、その「伝えたいこと」を女に伝えていない場合にのみ成立するのではないだろうか。
 女は好きな男から「優勝したら伝えたいことがある」と言われ、周りからも二人を祝福できる中身だろうと冷やかされている。女は男の言葉を待っている。その心は様々に揺れ動いているはずである。もしかしたらその返事はすでに決まっているかも知れない。イエスにしろノーにしろ・・・。

 そんな女の思いを男が自分だけの意思で「優勝」に託すのは卑怯である。男にどんなに覚悟があったにしろ、まだ女にその一言を伝えていないのなら、それはそれで理解できないではない。男が密かに自分だけに向けて覚悟の呪文をかけているのなら、それはそれでいいだろう。それは男の一つの弱さかも知れないけれど、告白できない弱さは自分だけのものとして始末できるからである。優勝できなかった男が、告白できないまま女の前から姿を消したとしても、それは男だけの問題だからである。それはまさに男一人の思いだからである。女の思いとは無関係なストーカーと同じような思いだからである。
 だが男の放った「優勝したら伝えたいことがある」の一言で女は振り回される。優勝できなかった男は、約束どおりその「伝えたいこと」の中身を伝えないだろう。そして「伝えたいこと」の中身は、優勝しなかった事実の前に霧散する。「伝えたいとの意思表示をした」事実だけを残しその中身を伝えない、そんなことで女は男のそんな中途半端な一言に納得するだろうか。

 結果的に優勝したんだから、これはこれでいいではないかと言うかも知れない。それで男の意思は女に伝わり、その「伝えたいこと」が明らかになるのだからドラマとして完結するではないかと言うかも知れない。しかし、その優勝が確実なものとしてあらかじめ保証されているのならそれはそれでいいだろう。でもこのドラマの構成は違う。むしろ「優勝しないかも知れない」とのどきどき感をドラマそのものも、そして視聴者にも伝えているのである。
 

 正月になったら話す、クリスマスイヴになったら、誕生日の夜に、初月給をもらった日に・・・、なんでもいい。将来の出来事であっても確実に到来する事実にこの一言を添えたのなら許してもいい。でも実現するかしないか、それも実現しない確率のほうが高いような事実に、男と女の思いのような重たさを賭けてはならない、そんな風に私は思ったのである。
 だから、男の真剣な思いとは別に私はこの男に我がままどころかどうしようもない身勝手さを感じてしまったのである。こんな男を許してはいけないとさえ思ったのである。つまり女に対する男の思いとはこれしきのものでしかないことに呆れてしまったからである。

 女に対する思いを糧に渾身の力を込めて男は走り、その必死な思いが男を優勝させたのかも知れない。それでもなお私は男の思いを身勝手だと思う。それは男の思いの裏側に、「優勝できなかったら伝えない」との気持ちが透けてしまっているからである。その覚悟を自分ひとりに言い聞かせているのならまだいい。でも男は女に、そして友人にも、女の周りの人々にもその覚悟を公言していることにどうしても許せないものを感じるのである。

 東北関東大震災から一週間、3.19土曜日からこのドラマは再開された。女の答えまでには届かなかったけれど、男の「伝えたいこと」がプロポーズであることは分かった。それでもなお、私は男の身勝手さを許されないままになっているのである。



                                     2011.3.19    佐々木利夫


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「てっぱん」に見る男のわがまま