スポーツ番組があんまり好きでないこともあって、ニュースも含めて野球やサッカーゴルフなどのテレビ放送が入ると、ついつい他のチャンネルに切り替えてしまうのが私の癖になっていることは何度もここへ書いたことがある。そうしたとき、なぜか他のチャンネルも同じようにスポーツ番組になっていることが多く、制作者には失礼ながらついつい特に見たいと思わないような番組であっても「スポーツ番組以外」という意味での緊急避難的にリモコンを操作してしまうことがある。この話は、そんな気まぐれで見ていた番組での一駒である。
NHK教育テレビの子供向け、それも幼児向けの番組であった。若い男女が出てきて歌いながら踊っていた。聞くとはなしに聞いていた。歌は、「トイレに行ったらどうするの」がテーマになっていた。若い男は「めんどうくさいから手は洗わない」と歌い、同じような年齢の女は「きちんと手を洗う」と歌っていた。そして登場する小さな子供たちに向って「どっちがいい?」と尋ねる、そんな歌番組であった。
特に真剣に聞いているわけでもないし、そもそも幼児向けの歌や番組の内容にいちいち意識など向けること自体ほとんどない。ましてや興味を持って選んだ番組ではないのだし、そのチャンネルに興味があったわけでもないから、この番組もそしてこの歌も、そうした意味では右の耳から左の耳への一方通行であり、その内容などまるで無関心であった。
でも聞いていてふと気になったのである。「トイレに行ったら手を洗おう」は、私たちが理屈抜きで理解している生活習慣である。私自身だって一日何度かトイレに通うけれど、石鹸を使ってしっかり洗うほどではないにしても、用を済ませて手を洗うことは無意識の習慣になっている。それは、面倒くさいけれど必要だから洗うというほど意識した実行ではない。外出するときに、いちいち足の裏に怪我をしないために靴を履くなどと考えることなどないように、手を洗うことも無意識の習慣、何も考えない当たり前の仕草になっている。
それでもそのことが少し気になったのである。どうして手を洗うのだろうかと思ったのである。汚れているからなのだろうか。例えば泥だらけの手、機械をいじって油まみれになった手、料理を作っていて粉や調味料にまみれた手、そうした手を洗うのはむしろ当たり前である。それはそうした手の汚れが不快であり、その手で他のものに触れると汚れが移ってしまうことを防止するためだからである。
そうだとするなら、トイレにいったら手を洗うこともそれと同じ意味を持っているのだろうか。つまり、「トイレに行く」ことと、「手が汚れる」ことがつながっているのだろうかと気になったのである。こうした場合の「手が汚れる」には二つの意味がある。一つは「泥まみれ・油まみれ」に代表されるような、まさに目に見える異物が付着していることである。もう一つは目には見えないけれど、何らかの汚れがついていると想像されること、具体的言うなら「ばい菌」が手についていると考えたことである。
さてここでトイレに話を戻そう。絶対にないとは言い切れないけれど、私たちが日常的に「トイレに行ったら手を洗いましょう」と考える場合、油まみれのような具体的に目に見える汚れがつくので洗い流そうとの意味ではないと考えていいだろう。利用するだけで手が泥だらけになるようなそんなトイレが、今の時代日常的に存在しているとは思えないからである。
だとするなら、残りは一つしかない。トイレに行くことで(それが小用にしろ大にしろ)手にばい菌がつく、だからそのばい菌を洗い流すために手を洗うのだとの意味である。
こうした因果の流れは「トイレにはばい菌がある」が前提になり、「トイレを利用することでそのばい菌が手につく」が結論になっている。もっと言えばその更に前提として、「そのばい菌は人体に有害である」があるのだろうけれど、その真偽を確かめるデータが見当たらなかったので、ここでは特に触れないことにする。
さてそうすると、ここにも二つの要因が考えられる。一つはトイレそのものがばい菌の巣窟であることであり、もう一つはトイレの利用目的たる糞尿がばい菌の巣窟になっていて、トイレの利用はその糞尿に手が触れてしまうことである。でも考えてみると、トイレそのものが不潔であることは決してない。トイレとは小部屋。個室としての単なる物理的な建物の一部であり、例えば細菌培養室であるとか伝染病患者の隔離病棟などとはまるで意味が違うからである。つまり、「トイレのばい菌」の意味はそのまま糞尿のばい菌の意味であろう。
糞尿がどこまで人体に有害なばい菌の巣窟になっているのか、実は私は必ずしもきちんと理解しているわけではない。尿毒症という尿の中で細菌が増殖して病気を引き起こす症例があるとか、食中毒の原因となる大腸菌やウィルスが下痢や嘔吐を通じて感染が拡大していくことがあるなどの知識くらいである。
尿で手を洗うような民族もいるからといって弁護するわけではないが、一般的に糞尿は無菌状態、少なくとも手を触れることで感染が拡大するような人体に有害な細菌などは存在していないと言われている。それは、そんな有害物質を普通の健康人が日常的に体内に抱えていること自体が不自然であることからも理解できると思うのである。
一歩譲って、感染症で下痢をしている人がいてその人たちからの伝染の危険がある、との理屈が分からないではない。その場合、第一の原因は感染している者の手に自分が感染している病気の細菌などが付着し、それがトイレを経由して他人へと拡大する恐れがあることであろう。さてそうした場合、その感染拡大の仕組みはどうなっているだろう。基本的には「感染者の手」である。その人の使った便器そのものから、つまり尻から尻へもあるだろうが、トイレを使ったら尻を洗おうみたいな習慣はないからここではこれには触れない。触れないけれど、可能性としてはあることだけは指摘しておかなければならないだろう。
さてそうなると問題は「手から手」である。多くの場合その「手から手」はトイレの取っ手になるだろう。つまり、トイレの取っ手に触るとそこにはばい菌がついていて、そのばい菌が次の人の手に移動するとの意味であり、具体的には触った手からばい菌が口の中へ入り感染する恐れがあるとの意味である。ならばばい菌の移動はトイレに限るものではない。喫茶店や電車や本屋のドアなどなど、人の利用する「他人の手が触れる場所」なんて世の中には星の数ほどあるだろう。だとすればトイレだけがどうして特別視されるのだろうか。
私はトイレを利用した後の手洗いという行動を否定したいと言うのではない。数ある感染の一つの可能性としてトイレも存在しているからである。でもなぜか私たちはトイレに固執してはいないだろうか。私たちが糞尿に不潔感を抱くのは、どうしてなのだろうか。それは本質的な問題ではなく、私にはどこかで刷り込まれ予断として与えられた、偏ったイメージのように思えてならない。たかが手を洗うことである。そんなに目くじら立てるほどのことではないだろう。トイレに行き無意識に手を洗ったことで、私が食中毒に感染しなかったであろう可能性だって皆無ではないかも知れない。でもそのことと、トイレの手洗いとを余りにも直接的に結びつけてしまうのはどこか間違いのように思えて仕方がないのである。むしろ「他人が手を触れるようなものに触れた場合には手を洗おう」が正しい理解なのではないだろうか。
私たちが常識と信じて行動し、または当たり前だと考えている多くの事柄についても、どこかで本当だろうかと時には反芻してみることも必要なのではないだろうか。正義にも真実にも、政治にも理想にも、時には神や祈りについても、「ちょっと待って」と一歩下がって振り向いてみる必要があるように思えてならないのである。
2011.6.25 佐々木利夫
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