頭の中では相手が間違っていると思っているのに、どこかその誤りに反論できにくいことってのが私の中にいくつも存在している。そんな一つに「私のからだ」に関するこんな主張がある。
それは別にそれほど難しいことがらではない。例えば中学生の女の子が援助交際(名称こそ格好良いが、つまるところ売春である)をする。その事実を知った大人は親も含めてそうした少女の行動を真っ向から否定する。そうした説教じみた説得に対して少女はこんな風に反論する。「私の体を私がどう使おうと勝手だろう、親や他人からとやかく文句を言われるような筋合いではない」。
さて、この対立は法律の問題ではない。例えば売春そのものを法律は禁止しているのだから、その故をもって少女も含めてすべての売春は違法だとする説得は、この少女の「私の体は私のものだ、とやかく言われたくない」とする反論の答えにはなっていないと思う。法律があるから駄目なのではなく、法律以前の問題ではないかが問われていると思うからである。
私が高校を卒業して税務の職場に入ったとき、一年間の初任者研修の中で主に刑法に関する分野だったと思うのだが、授業の中で自然犯、社会犯という分類を教えられた記憶がある。自然犯とは「人を殺す」行為のように、たとえそれを法律で犯罪と決めるまでもなく社会的道徳的に違法なのだとする考えである。そして社会犯とは行政法などによる行動の規制も含めて、法律で決めたことによってそれに反した行為が違法となるような事実である。例えば道路交通法に定める「右側通行」は、そもそも人は道徳的に右を歩かなければならないものではないから、法律が右と決めたことによって道路の右側を歩かなければならないという義務が生じ、その結果として左を歩くことが違法になるのである。
こうした二つに分ける理屈はとても理解しやすかったので、今でもそうした分類が頭のどこかにこびりついているような気がしている。そうした様々な人間に対する規範は、例えば「汝殺すなかれ」や「盗むなかれ」などが含まれているモーゼの十戒(旧約聖書、出エジプト記20章3節〜17節)などに思いを巡らすまでもなく、極めて分かりやすいものになっている。
だが「殺人」と「右側通行」くらいに極端な例だと整理しやすいような気がするけれど、すべての犯罪が自然法・自然犯、社会法・社会犯という二元論じみた理屈で割り切ることができるのかはかなり疑問である。そして更に考えを巡らすなら、それなら「すべての殺人」は自然犯だと断定してもいいのかと問われてしまうと、例えば正当防衛(自分の身を守るために行ったやむをえない行為など)や正当行為(例えば死刑の執行や安楽死、場合によっては緊急時などに医療における治療の優先度を決めるトリアージなども含まれるかも知れない)によって人を死に至らしめた場合にも、法律的にはともかく自然犯として評価されるのかなどについてはかなり疑問な思いがしてくる。
私たちは今の時代を、基本的には所有権の絶対性を基礎に置いて生活している。所有権とはとりもなおさず「所有し、利用し、処分する権利」である。もちろん所有権の絶対性と言ったところで、それは大きく「公共の福祉」(憲法11条、12条)に従うことで成立していることに違いはない。
とは言っても「私たちのからだ」もまた「私自身の所有権」の管理下にある。私のからだは親のものでも親族や友人のものでもなく、ましてや社会や政府や国家のものでもない。「所有権の証明は悪魔の証明」と言われている。それは単に占有していることの証明のみならず、適法に自己のものとなったことの証明も必要とされているからである。だが、少なくとも「私のからだ」は何の証明もなしに「私のものである」ことに何の疑念もない。だから私は証明不要の絶対的所有権を私のからだに対して持っていることになる。
だとするなら、そうした「私自身が絶対的に所有している私のからだ」をどのように利用しても、また場合によってはどのような形で処分したとても、それは私に与えられた所有権の範囲内のまったく自由な行為なのではないだろうか。援助交際をこの話の冒頭で掲げた。売春によって金を得ることへの大人と中学生少女の対立である。援助交際によって得られた金をどう使うかはこの際問題ではない。仲間との飲食代に使おうが、ブランドの化粧品やハンドバッグに消えてしまおうが、そのことの是非を理由に援助交際を論じたところで何の意味もない。私たちは税務職員として「金に色なし」をよく口にしてきた。どんな形で入手したところで、机の上に積まれた札束にその入手過程など無関係だからである。貧困にあえぎ、生活保護からも見放された少女の行った援助交際ならば、その行為は許容されるとでも言うのだろうか。
さてこうした「私の体は私のもの」、だから「私の自由にできる」の主張は、援助交際だけでなく様々な分野へと拡大していく。臓器売買もその一つである。人間には腎臓が2つある。一つをとっても死ぬことはないといわれている。ならば片方をなるべく高く買いたい希望者に売ってもいいではないか。いやいや、何なら死ぬことだって厭わない場合だってある。一つしかない心臓は売ることによってその人は死ぬだろう。それでも売った金で提供者の家族がこれからの将来、ひもじさから抜け出せるようになるかも知れないではないか。その金を赤十字に寄付することで自殺したいの願う私はその望みが叶い、赤十字もまたその資金で世界の子供たちを救えることだってあるかも知れないではないか。
この言い方も実は変だ。そうした金の使い道の価値によって臓器売買の是非を判断することはどこまで許されるのだろう。世の中にはとんでもないことを考えている金持ちだっているかも知れない。その金持ちは、人間の生きた心臓をそのまま食いたいと思っているのかも知れないし、または心臓の剥製を作って書斎に飾りたいと考えているかも知れないではないか。そんな身勝手な者に臓器を売るのは許されないのか。
こんな話は臓器売買にだけ発生するわけではない。片方の腎臓や肝臓・肺の一部などの移植は、生体間移植として主に親族間に多いだろうけれど現実に行われている。考えてみれば、献血も臍帯血移植も臓器移植のドナー登録なども同じレベルにあるのではないだろうか。それはまさに「(自分の死とはとりあえず隔離されているいるけれど)自分のからだ」の一部の処分である。無償かも知れないけれど所有権に基づく処分である。だとすればそうした行為は「売買ならだめだけれど無償ならいい」ことになるのだろうか。
こんな思いは援助交際から始まって臓器移植、そして最近話題になってきている代理出産にまで及ぶ。最近見たNHKテレビでは、子宮摘出をせざるを得なくなった娘の受精卵を娘の母親が自らの子宮で育て出産する話がドラマ化された。これは言うなれば子宮の貸借である。賃貸借か無償の使用貸借かはともかく、私の子宮は私のものなのだから、それを貸して親族や場合によっては他人の子供を育てることは私の勝手ではないかとの理屈がある。親族間なら認めていいのか、金を貰って商売として腹を貸すのはどうなのか。
この話とは違うのだが、最近ホルスタインの妊娠に体外受精させた肉牛の卵子を使うようになってきたらしい。同じ種同士での妊娠だと胎児が大きくて分娩が困難になるのに対し、肉牛の胎児は比較的小柄なので同じ出産と搾乳という経過をたどるなら安産を目指すほうがいいらしいのである。しかも肉牛のほうが価格的に採算もとれるので一石二鳥らしい。借り腹に牛も人間も違いがなくなってきている。
人と牛は違うと言ってしまえばそれまでではあるけれど、「自分のからだは自分のもの」を推し進めていくと、その先には自殺もまた承認できるのかという問題にまで及んでしまう。人は「たかが生物」なのかそれとも「尊厳を持つ特別な存在」なのか。冒頭の援助交際の女子中学生にもきちんと説明できるような考えを、私はどこかで見つけたいと思っているのである。
2011.5.25 佐々木利夫
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