正確な言葉としては忘れてしまったが、こんな狂歌か都都逸を聞いたことがある。「酒もタバコも女もやらず(知らず)、100まで生きたバカがいる」。どこかこの途中に「賭け事をしない」の一言も入っていたような気がしているのだが、うまく語呂合わせに組み込めないのは少しまどろっこしい。
 そしてこれは落語のような気がしているのだが、小話を一つ。酒も女も博打も嫌いで100まで生きた男の葬式があったそうだ。葬式に集まった隣近所の年寄り連中の話である。「ところであいつの兄貴はいまどうしてる」、「朝から酒食らって隣の部屋で寝ている」。

 いずれも人生を楽しむことと、どこかでそれを犠牲にして長寿を得たこととの対立を皮肉った小話である。人の一生なのだから、こんな落語みたいに極端な生き方をする人などそんなに多くはないだろう。またそれにも増して酒、女、賭博などを断つ人生が、必ずしも長寿を保証するようなデータもないことだろう。
 まあ、何事にも程度の問題だろうから、アルコール依存症になって肝臓を壊して早死にしたり、女にうつつをぬかしたり賭け事にのめり込んで人生を棒に振ってしまうようなケースだってないこともないだろう。

 私も年が明けると間もなく、73歳を迎えることになる。厚労省の発表による昨年度の男の平均寿命79.44歳からするならまだ数年を残しているけれど、とりあえずこうして気ままな生活を送っていられる現状は、それなり長寿を楽しんでいる部類に入ることだろう。だからそうした気まま老人の考える「残された寿命」みたいな感覚と、若い人や中年の考えている「これから生きていくであろう寿命」の意味が違うだろうことが理解できないではない。

 そのことは単なる残された命の長短以外に、例えば私たち世代が考えている寿命には過ぎこしてきた様々な残滓の味わいが彩りを添えているのに対し、人生半ばの世代が考えるこれからには「しなければならないこと」であるとか「残滓を味わうための備え」なども含まれてくるであろうからである。そうした時間を余生と呼んでいいのか、それとも残滓を仕上げるための時間と呼ぶのが適当なのか、必ずしも私にきちんと理解できているわけではない。だから同じ「年を取ること」であっても小学生と私たちの間に、理解のずれがあったところで当然のことかも知れない。

 こんな思いを抱いたのは、最近こんな新聞記事を読んだからである。
 「・・・小学校の教室で医師の声が響く。『たばこを1本吸うと、10分早く年を取ると言われてるんだ』。驚きの声を上げる6年生の児童たち・・・。(彼〜医師が)いま力を注ぐのは、喫煙者を減らす取り組みだ。(東日本大震災の)支援物資でたばこが届き、震災を機に喫煙を再開した人が多いと知り、残念に思ったことが行動のきっかけだ」(2012.11.19、朝日新聞、高田病院医師、語る・つなぐ)

 私は「たばこ1本、10分の寿命短縮」の真偽についてどうのこうのと言いたいのではない。恐らくこの投稿者は「たばこをやめよう」と言いたかっただけで、「1本吸うと10分間寿命を縮める」という表現の実証的な意味などどうでも良かったのかも知れない。

 でも私には、小学生に向かって人生の意味やこれからの生き方などに少しも触れることなく、単に「寿命が縮むぞ」とだけ一方的に宣言してしまうことにどこか違和感を感じてしまったのである。つまり、幼い心に「長く生きること」だけが人生の目的であるかのような思いを、無制約に刷り込んでしまっている一言にいささかの抵抗を感じたのである。

 喫煙と例えば肺がんの関係を示して「将来たばこを吸うとこんな危険の可能性がある」と諭すのならば、それはそれで私にも良く分る。でもこの投稿者はそうした関係だけでは「たばこをやめよう」との説得が小学生にはきちんと伝わりにくいと感じたのであろう。それでそれを飛び越していきなり「寿命」にまで話を飛躍させたというわけである。これはまさに説明抜きのいきなり脅迫である。「言うことを聞かないと命がないぞ」とばかりに、どす突きつけて脅迫するやくざの手法そのままではないだろうか。

 人が何歳まで生きられるかはまさに神の領域である。末期ガンの診断を受けたホスピスの患者になら、ある程度の余命宣告は医師としてできるかも知れない。だが小学生の寿命に関して言うなら、だれにも分らない人知の及ばぬ領域である。100を超えて生きるかも知れないし、明日にも交通事故でこの世を去るかも知れないのが寿命である。そうした領域にこの投稿者である医者は、土足で踏み込んだのである。

 私はこの医師の一言が、「余計なお世話」だと言いたいのではない。ただ、事実や結果を知らせることと、人生に何を選択するかということとは、別のレベルで考えるべきではないかと思ったのである。恐らく「一本10分」の意味は、一種の確率論であろう。もしかしたら統計的にもまるで意味のない、単に「たばこを吸ったら肺がんになるぞ」、「肺がんになったら死ぬぞ」、を言いたいだけの意味しか持っていない警句でしかないのかも知れない。

 確かに日本は長寿国である。世界一の記録はここ数年達成できないでいるらしいが、長寿国であることに違いはなさそうである。ただ一番の問題は、日本の(もしかしたら世界の)多くの人たちが、「長寿=幸せ」の方程式を無批判に信じているように思えることである。

 知人の見舞いで病院を訪ねたときに老人病棟の前を通ったことがある。またテレビなどで老人の入院生活を映し出す番組を見たこともある。老人の全部が病院や介護施設に入っているわけではないし、むしろ老人が報道されるのは病気やリハビリや痴呆や介護などの場面が多いから、そうしたことが目に入る機会が多くなってしまうだろうこともよく分かる。つまり私たちが目にする老人の姿は、そうした弱者としての視点からの入力が多くなってしまうのかも知れない。

 それでもベッドの上で口を開けたまま、起きているとも寝ているともつかぬ状態で点滴を受けている姿であるとか、介護者からスプーンで食事を口に運んでもらっている姿、うつろな表情で徘徊している姿、そして集団で「チイチイパッパ」などを唄わせられている姿などを見るにつけ、現実には「長寿=幸せ」の方程式がまるで成立していないような場面だけがあまりにも多く目に付くように感じられてならない。
 そうした老人の多くが「死にたい」と思っているわけではないだろうけれど、そんな映像からは「生きていることの充実であるとか満足」などの思いや表情がまるで伝わってこないのはどうしたことなのだろうか。

 投稿者であるこの医者が「1本10分の寿命短縮」を小学生に語った背景には、無意識かも知れないけれど「長く生きることが幸せにつながり、そこに人生の目的がある」との思いがあるように思えてならない。でも私は「たばこ1本吸うことで、意味ある10分の人生を楽しめる」と思う人がいてもいいのではないかと、ふと思ったのである。そして「たばこ1本吸わないことで、人生からたばこを吸うという楽しみが奪われる」と考える人がいたところで、それはそれでいいではないかとも思ったのである。

 「そこそこ食べていける収入があり、病気もせずに健康で長生きできている老人」がいるとする。でもそれだけが長生きすることに意味がある状況を示しているとは限らないのではないだろうか。なぜなら「長生き」そのものが目的と感じるのは錯覚であり、長生きできている時間をどう過ごせているか、どう感じているかの中にこそ長寿の本当の意味が含まれていると思うからである。
 そこのところに触れることなく、単に「長寿と幸せ」とを直結させて、あたかも長寿を人生の疑問符さえつけられぬ当然の喜びとしてしまうだけでは、「1本10分」の医師の講話は説得力のないものになってしまうのではないだろうか。このことはこの投稿者の話だけではない。長寿の意味については人々も、社会も、政治も含めた私たち全体の思いにつながっていかなければならないのではないだろうか。


                                     2012.12.27     佐々木利夫


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