今月16日の衆議院選挙で民主党から自民・公明党へと政権が代わり、それに伴って大臣もその全部の首が挿げ替えられることになった。大臣のポストというのが、これほど軽いものだということを私たちに知らせてくれたのが民主党政権3年有余の内閣改造による数多くの大臣交代劇であり、また大臣が軒並み落選した今回の選挙結果でもあった。

 その民主党時代の最後の文部科学省の大臣が、かつての自由党の総理大臣田中角栄の娘の田中真紀子であった。その彼女の最後の仕事が、新設大学の設置についての認可を二転三転させたことであった。大学設置委員会の答申で来年4月から認可されることになっていた新設大学について、大臣は不認可を主張したのである。原因は、少子化のもとで受験者が減少していく現状に「大学の乱立に歯止めをかけ、教育の質を高めたい」とするものである。こんなときに大学ばっかり増やしてどうする、との思いが強かったのであろう。

 大臣のこうした意見は、意味としてはそこそこの理解は得られたものの、答申が「認可」であり、申請した大学も開校準備に向けて数年間も努力しており、中には数ヵ月後の開校に向けて校舎を建築中であったり、生徒募集にかかっていたことなどもあって、「この期に及んで」の意見に押されて結局は「不認可の主張は撤回する」、つまり「答申どおり認可する」ことで決着がついた。

 世論は「いきなりの不認可は唐突」として大臣の撤回は認めつつも、「大学乱立の歯止め」に対しては、今後の問題として頷く傾向が強かったように思われた。

 ところで、この「大学の乱立に歯止めかけ、教育の質を上げたい」との問題提起に、「ちょっと待って」とする記事が新聞に掲載された。

 「・・・中教審も08年に『改めて大学として最低限備えるべき要件を明確化する』と打ち出した。実際に申請の取り下げや留保が増えている。気になるのは、大臣が国会の委員会や記者会見でこうも言っていることだ。『財務省から大学数をへらしてほしいと来ている』『いいものを育て、そうでないところは退場というか、被害を縮小していく』。(でも、)今ある大学も淘汰し、教育と学生の質を上げるという考え方なら賛同できない。・・・大学のパイを小さくすれば入るのが難しくなり、大学生の学力は上がるかも知れない。でも、あぶれた若者はどうなるだろう。大学生の質が上がっても、若者全体の力が落ちては意味がない。難易度の高くない大学には作文の書き方など、高校までの『学び直し』の授業をしている学校も少なくない。大学が高校までの尻ぬぐいをし、社会に出て働けるように育て上げている面がある。・・・大学を減らすだけでは、食べていけない人が増える。・・・」(2012.11.15、朝日新聞、社説余滴)。

 なんとなく分るような気のしないでもないこの理屈、でも絶対に変だ。「大学のパイを小さくすれば入るのが難しくなる」、この理屈は正しい。正しいというよりは、それを目的にパイを小さくしようとしているいるのだから当然のことである。パイを小さくしたのだから、大学に入れない若者が増加するのは当たり前のことだし、もしパイを小さくする時期を「直ちに」とするなら、はみ出た学生はまさに企業におけるリストラのように失業者へと名称が変貌することになる。

 だからそうした変化をもう少し緩やかにとか、行き場を失う学生のセーフティネットを整えるべきだというのなら分らないではない。でもこの記者の意見はまるで違う。私の言う失業者に対応する言葉として記者が使っているのは「あぶれた若者」である。こうしたあぶれるであろう若者が社会的にも能力が劣っていることは、あぶれる若者を排除することで残された学生を分母とする大学の質があがっても、そうした若者が社会に流れ出て「若者全体の力が落ちては意味がない」という表現で記者自身が認めている。それは「大学が高校までの尻ぬぐいをし、社会に出て働けるように育て上げている」からだと彼は言う。

 こんな変な理屈が本当に通じるとこの記者は思っているのだろうか。この意見の背景には、高校までに社会に出て働けるようにしておけばいいのに、それをしない小中高までの欠陥をかろうじて大学が補っているからだとの思いがある。しかもそれは「大学の持つ当然の使命だ」との思いに裏打ちされている。つまり、大学の目的は高校までの教育の補完であり、かつそれが目的であるとする抜きがたい思いである。ましてや「大学を減らすだけでは、食べていけない人が増える」なんぞは、言語道断な意見である。

 そんな理屈で大学の改革に反対できるのだとするなら、企業の合理化やリストラも、公務員の無駄の排除も、「被用者の退職」につながるであろうどんな施策も認められないことになるのではないだろうか。年がら年中、鼻毛を引っこ抜いてあくびをするだけで何の仕事もしないようなサラリーマンだって、もし首になってしまえば本人はもとより家族も含めて「食べていけない人」になってしまうからである。

 ここまで言い切るのは屁理屈になってしまうかも知れないが、それでなくても「大学の目的が高校までの尻ぬぐいにある」とする意見は、私にはとんでもない暴論に思えてならない。そのことが「事実に反する」と言いたいのではない。中学や高校までの卒業で十分に社会に対応している若者(つまり、この記事を書いた記者の言葉を借りるなら『大学で尻ぬぐいをしてもらえない若者』)だって世の中にごまんといるだろうことくらい聞かなくたって分る。

 だからと言って現在の大学生を見ていると、何のために大学へ通っているのだろうかと疑問に思うような学生がいることも事実である。だからこそ、この記者の言うような「社会に適応するように尻ぬぐいをしてもらう」必要があるのだあろう。そしてその「尻ぬぐい」のおかげでかろうじて社会に適応できるようになっている学生がいるだろうことも分からないではない。もちろん、「尻ぬぐい」をしてもらったにもかかわらず、それでもなお社会に適応できないままでいる学生もまたそれなり存在するであろうことも含めてであるが・・・。

 現実や結果から遡って、入り口や途中経過を検証することをあながち間違いだとは思わない。でも、そのことと現状を維持することが正しいとの理屈をストレートに結びつけることとはまるで違うと思うのである。大学は小中高の「尻ぬぐい」の役目を担うところではないはずである。もし仮に、「尻ぬぐい」が大学の現実の役割になっているのだとするなら、それは間違いである。大学は社会に適応するためのモラトリアム(支払猶予)を与えるための機関ではないはずだからである。何を学問と呼び、何を研究と呼ぶのか、必ずしも私に理解ができているわけではない。それでも私は大学を「学問の府」として理解しており、そのための教育の場だと思っているのである。

 金持ちがぐうたら息子やキャピキャピギャルのために、一種の扶養の場として自らの資金と責任で学校を運営しているのなら、どんな方針で学校を経営しようとそれはそれでいいかも知れない。でも国公立はもとより私学も含めて、大学教育に国民は多大な税金を投下している事実を忘れてはいけない。だからこその大学設置委員会の答申であり、文科省に与えられた認可の権限だと思うのである。

 高校の尻ぬぐいをしなければならないような生徒を集めている大学に多額の補助金をつけ、学生としての資格を与え、優遇し、学ばない学生を作り出している現状は、まさに私たちが教育に対する理念を放棄したことによる結果なのかも知れない。だが、そんな学生や学校に、私たちが税金という形で援助するなどもってのほかである・・・、とへそ曲がりの老人は頑なに思っているのである。

 つい最近見たテレビコマーシャルである。コマーシャルだからそれが現実世界をそのまま映しているとの保証はない。それでもどうにも気になってしまった。
 疲れた表情の若者がつぶやいている。「・・・あー・・・あ、会社辞めて、クリエーターみたいなものやろうかな・・・」。私はクリエーターの本当の意味を知らない。せいぜいデザイナー、イラストレーター、フォトグラファー・・・そんな程度である。このコマーシャルの若者は「デザイナーになりたい」と思ったのではない。単に「みたいなものをやろうかな・・・」とつぶやくのである。その程度のつぶやきでクリエーターになんぞなれるとは思えないけれど、もしこのコマーシャルが若者の注意を引くのだとするなら、そんな若者を作り出した私たちや国や社会の責任にはとても重いものがある。


                                     2012.12.25     佐々木利夫


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