世界一過酷だと言われている自転車レース(ツール・ド・フランス)で、7度も優勝した選手がドーピング(禁止薬物の摂取)でその栄光を終身剥奪されたとのニュースを最近見た。オリンピックでも世界選手権でも、なんでもそうなんだが、現代のスポーツは勝つことだけが目的になってしまい、勝つことの結果に対して多大な金銭と名誉が付きまとうことになっている。だから参加者は、ひたすら優勝することだけに集中することになり、それがそのまま薬物による身体改造とも言えるドーピングの問題を引き起こしている。
 詳しくは知らないが最近のドーピングは、自己血液を改造して再輸血するなど、単なる薬物乱用を超えて遺伝子操作の分野にまで及んでいるらしい。

 これから書こうとしているのはそうしたドーピングを批判しようとの意図を持ったものではない。最近のテレビでTED(テクノロジー・エンターティメント・デザイン)というアメリカで開催されているトーク番組を見ていて(10.22、NHK Eテレ)、ふと障害者と健常者の境界に疑問が涌き、同時にその疑問の延長線上にドーピングが見えてしまったからである。

 それはもう既に終わってしまったイギリスで行なわれた今年のパラリンピック競技でも感じたことであった。それは義足による陸上競技であった。鋼鉄か炭素繊維か、それとももっと別の材質で作られたものなのか分からないけれど、太ももから延びている両足の義足はしなやかで強靭な薄いへらのような形をしていた。そのときは単に「すごい義足だな」と思っただけだったが、TEDの番組を見て少し考えが変わってきた。

 今回のTEDのプレゼンテーターはエミリー・マリンズと言うスーパーモデルで、以前のパラリンピックでは選手として、また今年のパラリンピックでは旗手として出場したらしい。とても美しい女性による講演だった。彼女自身が生まれながらの両足の欠損で義足が日常の生活を送っているが、一方で映画にも出演しているようである。

 彼女の話はもちろん義足についてであった。そしてその内容は義足には「詩があること」、そして「楽しむこと」であった。彼女は表面に彫刻を施した義足や透明に近い素材で作られた義足を10組近く会場に並べ、あるときは10センチ近くも長く作った特別な義足を装着して友人と会うこともあるのだと話していた。そしてその友人から、背が高く見えることについて「12組も脚があるなんてずるい」と驚かれたことなどを笑い話として紹介していた。

 つまり彼女が言いたかったのは、義足が単なる健常者へ近づくための補助具ではなく、それ自身一つの装身具としての機能を持つこと、そしてそれは決して他人の目から自分の脚が不自由であることを隠したり恥じたりするものではないこと、そして更にはそうした装具そのものに「詩」を見つけ「楽しむ」ことを示したかったのである。彼女はまた、義足は「人間の可能性についての対話である」とも言っている。

 この映像を見ていて私は、果たしてドーピングとは一体何なのだろうかとふと思ったのである。ドーピングとは一般的には「スポーツ選手が運動能力を高めるため、禁じられた薬物を用いること」(大辞林)である。公正であるべき競技が薬物の力によってコントロールされるような状態は、スポーツそのものの否定につながるとして禁止されているのはむしろ当然のことかも知れない。そうしたスポーツの公正さを担保する方法の一つとしてドーピング禁止が機能しているであろう意味は充分に理解できる。

 国際試合に限らず、身近な地区の試合なども含めて、恐らくどんな競技においてもドーピングは禁止され非難されていることだろう。薬物によって実力以上の能力が発揮され、それによって勝敗などの結果が支配されることは「実力によるゲーム」であることの担保を根底から覆すことだからである。ドーピングの基本は「禁止された薬物」にある。そういった意味では、私にはその知識はないけれど、国際規約なり主催者なりが科学的根拠基づいて薬物なり薬品を限定しているのだろう。

 だがそのための検査システムが揺らいでいるとも聞いている。もちろん禁止薬物であるA薬品が利用されたかどうかはきちんと検査され、違反があれば優勝取り消しなどの裁定がなされることになる。しかし、遺伝子操作や体内での自動的な合成などを利用することによって、いわゆる検査からの抜け道が発見されるようになっているらしいのである。それ以外にも、例えば禁止薬物に該当しないけれど同じような効果を持つ新薬の開発が進んだり、体調のいい時に抜き取って保存しておいた自己血液を試合直前に自分に輸血するなどなど、検査に引っかからない方法が次々と発見されているとも聞いている。

 そうした問題への対処が仮にいたちごっこだったとしても、それはドーピングの定義と違反に対する検査手法や摘発の問題であり、そのことを私はここで取り上げたいのではない。ただ手段の当否はともかく、ドーピングへの誘惑は、「より強く、より速く、より高く」を求めての結果からきていることは明らかである。それは順法ではあるが過酷なトレーニングを続けることなどと目的に関して違うところはないと思う。

 私たちがパラリンピックを開催しようとした背景には、障害者が健常者に対してハンディを負っていることを当然の前提と考えてきたからではないかと先に書いた。それは旋盤などを使って工作する技能オリンピックや、彩りや味覚を競う料理オリンピック、そして数学オリンピックであるとかロボットコンテストなどの別次元で勝敗を競うようなオリンピックとはまるで意味の違う、まさに健常者と同じ内容を障害を持つ者同士で実施することにあった。

 恐らくそこには「障害を持つ者はどんなに頑張ったところで健常者に勝てるはずがない」という思いが、我々の中に暗黙のうちに了解されていたような気がする。私たちはそうした「勝てるはずがない」というハンディを縮めるために義足や車椅子など様々な工夫や発明を繰り返してきた。それは単にスポーツの分野だけに限るものではない。人口歯根(インプラント)は日常のものとなり、人口の股関節や義手や義眼や人工心臓とも言えるペースメーカーなどもそうした系譜に連なるものであろう。

 今年のノーベル医学生理学賞は日本人が発見したIPS細胞(どんな臓器にも代わりうる細胞)に与えられたし、ナノテクノロジーの発達によってマイクロカプセルに仕込まれた様々な設計図はまるで映画「ミクロの決死圏」を地でいくようになってきている。SFの世界そのものだったアンドロイドさえ、会話や介護を通じて身近な存在になりつつある。

 そして今回私が見たTEDの番組である。多少意味は違うにしても、このトーク番組の彼女は、義足を健常者に近づくための補助具としては見ていないのである。背を高く見せたり、スラリとした美しい脚を見せたいことを目的に、一種の形成外科の手法として健康な自分の脚を切断して義足に取り替えるようなことは起きないとは思うけれど、医療の技術がそこまで来ていることは認めなければならないだろう。

 そして今年のロンドンオリンピックでのことである。とうとう両足とも義足の南アフリカの選手一人が、パラリンピックではなく健常者集団のオリンピックに対等な選手として出場することになった。結果は予選は通過したものの決勝には進めなかったことからメダルには届かなかったけれど、この事実は少なくとも健常者と障害者には垣根のないことを示す始めての例となったのである。

 アニメやスポ根ドラマくらいでしか知らないけれど、鉄の下駄を履いて脚を鍛えるとか体にスプリングを巻いて腕の筋肉を強化するなどのトレーニング方法は、かつて流行していた神社の石段をかえる跳びで上るみたいな特訓とどこか類似していて、その意味するところはいわゆる鍛錬すればするほど肉体は強くなるとの「人体改造」への信仰にあったような気がする。

 義眼は恐らく人体改造のもっとも初歩のものだったような気がする。義眼そのものには、外見を取り繕うという目的以外に何の役目もなかったからである。でも義足や義手には少し違った役目が付加された。たとえそれがフック船長のカギ爪の手にしろ、また数歩が限度でよたよた・よちよちの形だけの脚であるにしても、殴ることができるとか、「歩けない人が僅かにもしろ歩けるようになる」のような、健常者に近づける効用が付加されたからである。そんな義足がオリンピックに健常者と並んで出場できるまでに進化したのである。

 鉄腕アトムの脚はロケットになっていて、時に応じ空を飛ぶことができる。もし義足にロケットを仕込めるような技術が開発されたとしたら、その義足を着用した私はオリンピックに参加できるのだろうか。先端技術の義手と義足を装備した私は、100メートル競走だけでない。マラソンも高飛びも水泳も砲丸投げも、あらゆる競技のチャンピオンになることができるも知れない。そんな私をサイボーグと呼ぶか、それとも人間と呼ぶか、更には健常者とも呼んでくれるのか分からない。

 ドーピングは薬物に関する規制である。それが義肢や義足の問題とはまるで異なることくらい言われなくたって分かっている。だからそうした事実をドーピングと結びつけるのは間違いかも知れない。でもドーピングの一番根っこにあるのは公正さの要求であり、それはそのまま「ズルを許さない」ことではないだろうか。そうしたとき、何がズルで何がズルでないかはとても難しくなってくるような気がする。

 マラソン選手が富士山頂の環境に近いような外国の高地にまで出向いてトレーニングするのは今や常識みたいになっている。酸素不足の状態に体を慣らすための訓練だと聞いた。でもそのトレーニングの費用がないためそうした訓練をすることができなかった人にとってみるなら、高地トレーニングは一種のズルであるような気がする。また練習のための時間がたっぷり与えられている環境にある人と、生活や育児などに追われて練習時間を削らざるを得ない人との違いはズルとまでは言えないのだろうか。

 練習や試合や何らかの事故で故障した膝を治療するために、もっと極端に言うなら親からもらった膝よりももっと効率的で更なる酷使に耐えるであろう効果を求めて人工関節を埋め込んだとしたら、それはドーピングとどこが違うのだろうか。人工心肺、人工関節、人工腎臓、なんならおまけに人工血液まで装着した70歳を超えた私が、次々と世界記録を塗り替えていく、そんな時代を考えることは荒唐無稽なのだろうか。私にはそうした現象を止めようもなくなる時代が、すぐそこまで来ているように思えてならないのである。

 ドーピングを巡る問題は、つまるところスポーツの優勝者に与えられる名誉なども含めた余りにも過大な報酬に原因があることは否定できない。そこのところを解決しない限り、ドーピングやそれに類似した行為はこれからも姿や形を変えて存続していくことだろう。マン・マシンの境界が不透明になっていく時代というのは、もしかしたら人が人としてのアイデンティテーを失っていく過程をも暗示しているのだろうか。


                                     2012.11.10     佐々木利夫


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