ひと月ほど前に録画しておいたアニメのフランダースの犬を最近再生してみた。恐らく夏休みの子供を対象に放映したものなのだろう。私だって時には暇つぶしにせよ童心に帰る(?)こともあるのだ。私自身が子供だったころにテレビはなかったから、この番組を見たのは恐らく我が子に付き合ったことによるものだろう。だとするなら30数年も昔のことになる。そんな遥か遠い記憶なのに、ネロ少年やパトラッシュの顔はもとより、登場人物の多くの顔にまで馴染みが残っていたこと、ストーリーもほぼ覚えていたことにいささか驚いてしまった。記憶にないのだが、この作品は日本の製作によるものなので以前にも再放送を見ていたことがあるのかも知れない。

 それほど熱心に見たわけではないけれど、それでも録画した番組というのは生放送よりも見るのに多少エネルギーが入ってしまうような気がする。そんな意識など抱いたつもりはないのだが、「録画した」という事実には例えばハードディスクなりブルーレイディスクなりを僅少にしろ消耗しているとの意識を重ねてしまい、録画行為そのものに「原価」らしきものがかかっているような錯覚を抱いていしまうかららしい。その結果としてその投下した原価を「録画を見る」という形で回収しなければ損だみたいな思惑が付きまってしまうようなのである。だから録画番組を途中で見るのを放棄したり、中途のまま消去してしまったりする行為が、なんとなくためらわれるような気持ちに襲われるらしいのである。

 そんなこんなで結局見終わるまでの約1時間半ばかり付き合うことなってしまったのだが、見終わって二つばかり気になることがあった。一点目は、私はこの物語をアニメ、しかも今私が見終わったこのアニメでしか知らないことであった。題名もストーリーも外国の童話であることはその通りなのだが、そうだと断定する根拠が日本人が製作したこのアニメだけからの知識でしかないことがどこか気になったのである。もしかしたらこの物語は、このアニメのために製作された日本人のライターによるオリジナルな作品かも知れないことを否定できないように思えたからである。つまり私はこのタイトルの物語を外国文学として理解していたということそのもの根拠が、いささか揺らいできたということである。

 そしてもう一点。ただそうだとするならこのアニメのラストのネロ少年が教会の絵を見ながら死んでいく場面での一言が、どこか日本人の発想からは遠いような気がしたことである。この疑問を解決するためには、何と言っても原作を探すのが一番である。図書館の蔵書検索であっさりと見つけることができた。このタイトルそのままで、作者がイギリス人のウィーダ(本名マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー)という女性作家であること、そしてやはり童話であること、そして様々な翻訳や絵本などで紹介されていることであった。
 原書で読むことなど叶わない私にしてみれば、せめて絵本ではなく原作に近い小説として読みたいと思い、「フランダースの犬」(A DOG OF FLANDERS 1872年、ウィーダ作、野坂悦子訳、岩波少年文庫114)を借りることができた。

 これで気になった第一の点はあっさりと解決することができた。そしてアニメでもドラマや映画でもよくあることなのだが、原作と映像化された作品とがまるで違ってしまう場合のあることについても、多少の違いはともかくとしておおむね原作どおりのストーリーでアニメが構成されていることにとりあえず一安心した。
 なにしろ最近、アニメ「風の谷のナウシカ」が(これもまだ私は原作を読んでいないのだが)、原作では汚染された地球に適応してしまっている新人類と汚染を除去して昔ながらの地球環境に戻そうとする旧人類との解決不能な対立、つまり汚染の除去は旧人類には生き延びていくための必須の条件であると同時に新人類にとっては未来の否定になるという妥協できない二律背反が根底にあると知らされ、アニメからはまるでそのことに理解できていなかった私に気づいたばかりだったからである。

 もっともアニメのフランダースの犬ではネロとアロワの仲が幼い友情に見えたのに、原作では15歳と12歳のもう少し大人っぽい関係になっていることや、アロワの父が2000フランの入った皮の袋を落として「永久になくなってしまった。・・・アロワに分ける財産もなにもかも」と絶望に打ちひしがれる姿と、ネロが応募した絵画コンクールの賞金が200フランであることのギャップ、つまり失った2000フランが人生に絶望するような金額であるとするなら、その10分の1にも当たる200フランというのはコンクールの賞金としてはいささか高額過ぎてバランスがとれていないのではないか、などのいささかひっかかる点は残ったものの、気になった第一点についてはまずは一安心というべきであった。

 さて気になった二点目はネロの死の場面についてであった。アロワの父の風車を失火で消失させたのではないかと疑惑を持たれて仕事はなくなり、クリスマスに開催された絵画のコンクールにも落選したネロ。家賃も払えなくなったネロは、空腹を抱えて絶望の中で誰もいないクリスマスの夜の教会を訪れる。そして教会に掲げられていながら有料のため普段は布がかけられいて、貧乏なネロはまだ一度も見たことのない、その地方出身の有名な画家ルーベンスの描いた「十字架にかけられるキリスト」と「十字架からおろされるキリスト」の二枚の絵の前に倒れこむ。それに合わせるように、絵にかけられていた布が吹き込んできた風のせいか、それとも絵を管理している者の不注意のせいからなのか偶然めくれて、ネロの前にその全容を見せることになる。ドラマはクライマックスである。

 私が気になったのは、図らずも念願のその絵を見ることのできたネロが呟いた言葉であった。原文は一つだろうけれど、私自身理解できないので翻訳を示すしかない。
 アニメではこうである。「ああ、マリアさま。僕はもう思い残すことはありません」。私はアニメのこの一言がどこか気になりそれが原作を読むきっかけにもなったのだが、念のため岩波少年文庫の訳文を次に掲げよう。「『とうとう見たんだ』、ネロは大声でさけびました。『ああ、神様、これで十分です!』」(前掲書P97)。そしてネロはそのまま、パトラッシュに寄り添いながら共に息絶えるのである。

 つたない私の理解を押し付けるつもりはないが、この最後の言葉は文としては違っているけれどほぼ同じような意味に理解していいような気がする。どこが気になったのか、それは信仰に対する彼我のあまりにも大きな違いであった。この一言は15歳の少年の、死に瀕した最後の言葉である。もちろんこれは小説である。こんな実話があったとの情報も解説もなさそうなので全くの創作であろう。だからと言って、「15歳がこんな格好のいいことを言うはずがない」と決め付けるのは早計である。少なくとも名作として世界中の人や子供たちに愛され続けてきた背景には、読者の中にこの作品に対する大きな共感があったからだと思うからである。

 もし仮に、日本人の15歳の少年が同じような言葉を発したとしたら、それはまさに日本人の思いとは乖離したものであり、場合によっては鼻持ちならない嘘になるのではないだろうか。つまり日本の中学生は、決して「神様、これで十分です」などとは言わないと思うからである。

 そして私はこのとき「神様にはかなわないな」と思ったのである。もちろん日本にだって神様はいる。仏様だって数え切れないほどいる。でも、日本の神様は、ネロ少年に届いたような信仰を私たちの心に伝えることなど決してなかったのである。それは恐らく私たち自身が神をそこまで信じていないことが原因にあるのだろう。

 人間の生きていることが心臓が動いていることと同義であるように、信仰もまた人間そのものの本質であると当たり前に信じられていたとしたらどうだろうか。確かに宗教や信仰が、どんな場合にも人の幸福に結びついているとの保証はない。現在も続き、解決の糸口すらも感じられない宗派対立や宗教戦争、利害が命を的にしてあからさまにぶつかり合う宗教そのものの存在など、人は必ずしも信仰によって救われてきたとは言えない場面も多い。
 
 でも文明人の気まぐれによって生まれて始めて流れ落ちる滝を見せられてその場から動こうとしない砂漠の民と「・・・これ以上なにをごらんになるのです? まいりましょう。待たなければならない。 待つって、なにお?。 終わるのを。彼らは神がその狂気沙汰に飽きるときを待とうとしていたのだ。」(サン・テグジュベリ、「人間の大地」、みすず書房P234)のような会話を交わしたとき、私たちはそれにどう答えたらいいだろうか。またブルカの女から「あなたの国の女たちは、恥じらいもなく顔を見せている」と言われたとき、信ずることや信仰することの意味をどんな風に理解していけばいいのだろうか。

 私はネロ少年の最後の言葉の中に、やっぱり「叶わないな」との思いを感じ、彼我の違いがあまりにも大きいことにどこか呆然となったのである。そして日本人に向って、どうして信仰や祈りなくして、自動車やテレビや原子力発電などの現代を信じることができるのかを思ったのである。そしてそして、どうして私たちがとても大切にしているように思っている正義や道徳や善意などの意味を信じることができるのかを思ったのである。私にはそれに答える術はないように思えてならない。少なくとも今の私には信仰と呼ぶべき臍が、身の裡のどこにもついていないように思えてならなかったからである。


                                     2012.8.29     佐々木利夫


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