ふるい落としてきたものが自らの意思によるものではなく、無意識にしろ忘却にしろ結果的に落ちてしまったあれこれをも含むのだとするなら、私はこれまでどんなにかたくさんのものを落としてきたことだろうか。もちろん落としたこと、もしくは落としてしまえたということは、少なくとも我が身の裡に僅かにもしろ落とすことのできた様々を一度は取り込んだ過去があったことを意味している。だとするなら、もしかしたらふるい落としてしまった数々の中のいくつかは、僅かにもしろ今でもその残滓を私の中に残しているのだろうか。最近読んだ詩の中にこんな一節を見つけ、そのフレーズに思わず我が身の越し方を重ねてしまった。永瀬清子のこんな詩である。

 「フルヒ落シテキタモノガ
  私ヲハルカニ呼ンデヰル
    ・・・・・・
  フルヒ落シテキタモノガ
  私ヲハルカニ呼ンデムナシク


    
  永瀬清子 「フルヒ落シテキタモノガ」、詩集・諸国の天女 から

 結局は私は私でしかない。エジソンは成功の秘訣を99パーセントの努力と1パーセントのひらめきだと言ったようだが、99パーセントにも及ぶ執拗な努力を続けられる力もまた、一つの才能であるような気がしている。しかもそれ以上に99パーセントの対象となるパイの大きさもまた、人によって途方もなく違うような気がしている。なぜなら、ちっぽけな望みの99パーセントはやっぱりそこそこちっぽけなパイにしかならないと思うからである。

 だから夢や希望や実現しなかった様々を挫折なんぞと言い募ることは、計測できないであろう分母の矮小さやそれに向うための努力を、単に放棄したことに対する言い訳に過ぎないと言われてしまえばそれまでのことかも知れない。私には最初からそうした分母の大きさが欠如しており、ましてや99パーセントに達するまで継続させていくだけの意志力も根気もなかったのかも知れないからである。
 世界には科学や思想や芸術などなどあらゆる分野に、天才と言えるような人たちは数多く存在する。それは天与の才と言うのではなく、もしかしたら「天与の努力」、「天与の根性」と呼ぶべき才能なのかも知れないし、もしかしたら神様から与えられたパイそのものの決定的な違いなのかも知れない。ただ、そうした事実を踏まえても、世の中はやっぱり一握りの天才とたっぷりの凡人とで作られているのであろうことは、どことなく分かってくる。

 そしてそれがたとえ努力しなかったこと、場合によっては努力が足りなかった結果によるものだとしても、そんな有象無象の凡人もまた世の中をそれなりに構成している存在なのだと、どこかで納得させようとしている自分がいる。むしろ「僅かの天才を羨む圧倒的多数の凡人」という構成によって世の中は作られているのであり、たとえ天才と凡庸の数のバランスが極端なほど崩れていたとしても、そうした崩れている共存こそがとりあえず安定した社会や世界を作っていくために必要な要素になっているのではないかとの思いさえしてくる。

 彼女はまたこんな風にも詠っている。

 「・・・・・
 西洋梨の形が西洋梨であるやうに、
 私は私につくられた。
 ・・・・・・

     「わが運命」、詩集・大いなる樹木 から

 アインシュタインにも芥川作家や哲学者にもなれなかったこの身を悔やむことではない。なろうとした思いこそあったものの、思いだけに止まったのが私の人生だったと思うからである。それでもほんの僅かにもしろ努力したと思えるちっぽけな自負は今も心のどこかに残っているいるし、そしてその更に更にちっぽけな努力の残滓がこうして気の向くままに書き連ねている様々の折に、暗闇に隠れているヘビの舌先のようにチラリとその姿を見せてくれるような気がする。

 それは「あれも、これも、私」であり、「私以外ではなかった私」であることを執拗に問いかけてくる。そしてそうした「私」の中に私は沈潜し、しみじみと私を味わい、そうした私との妥協と是認の中に今は遊ぶことができる。だから老いの時間ということは、実はそうした是認の中に我が身をたゆとわせることのできる神様の与えてくれた貴重な時間なのかも知れないと、ふと感ずることがある。

 「私ははずむ指のおののきをおさえてここにさしかかる」
 「そして私を更に新らしく充分にみたすために」
 「私は心をこめてそう呼ぶ」
 「忽ち私は去年逢わなかった人々にもう逢った」
 「私の馬は山道で不意に立ちどまった」
 「又は私自身の傲慢か」
 「私は旅人のように途方にくれる」
 「私には脱ぐということの美しさが」
 「私の心の襞はふかく折りたたまれ」
 「然し私はこの本に何を見るでしょう」

                            薔薇詩集から


 
彼女の詩集から「私」というフレーズが含まれている部分を脈絡なく抜き出してみた。まだまだ彼女の詩は続く。もしかしたら彼女の詩は、「私」という言葉で紡がれているのかも知れないと思えるほど、「私」が乱舞している。ここには小さな、そして紛れもなく彼女個人としての「私」がひっそりと息づいている。逃れられない自分としての私、そしてその中であえぎ、わめき、水面に浮かび上がろうとしている「ひとつの私」が見えてくる。

 明治生まれの彼女と私には何の接点もない。平成7年に89歳で亡くなったことすら知らなかった。この詩集を手にしたのだって、たまたま彼女の詩が引用されていた本を読んだのがきっかけになっただけのことでしかない。だから彼女の人生としての「私」に私が関わったのは、この詩集一冊だけのことである。そんな彼女の人生に私を重ねることなどできないだろうが、それでもそれも一つの私の今なのだと、どこかで納得(しようと)してもいるのである。


                                     2012.8.16     佐々木利夫


                       
トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



フルヒ落シテキタモノ