全国に54基ある原子炉の内、北海道の積丹半島にある泊原子力発電所一箇所を除いた全部が現在運転休止中である。福島第一原子炉の4基は昨年3.11の東北大震災で破壊され廃炉が決まっているが、残る休止はすべて点検中の状態にあるからである。一部では点検状態から廃炉へ向うものもあるようだが、ほとんどは点検が終了し自治体がOKすれば通常なら再稼動につながっていくことになっている。だが、福島の事故以来安全の確保や災害に対する備えがどこまで十分かについての住民の意識の高まりがあり、それに連動して自治体もまた住民への説明責任などが強くなってきて、福島事故後の再稼動はまだ一件もない状況にある。
 そして残る一つの泊発電所も5月5日に定期点検の時期を迎え、稼動がストップすることになっている。つまりこのままの状態でいくなら、日本の原子力発電所は間もなく残る10日で足らずで一箇所の稼動もないという全面休止の状態になるのである。

 このままでは国民の望むような電力供給は難しくなるとして、全国の電力会社は原発の再稼動に向けて必死である。ところが電力の価格はその積算の根拠となるコストの中味などが開示されることなく一方的に電力会社の言いなりで決められていたことや、原子力発電がなくなると電力供給の不足から国民は真っ暗闇の中で過ごさざるを得ないみたいな説得も、単なる電力会社の一方的・脅迫的な言い分ではないかなどの疑心を生み、一向に再稼動へと進展しないままの状態が続いている。しかもこの電力不足の見解すらも電力消費のピーク時に北海道、関西、九州の三電力会社だけが数パーセント不足するとの情報であり、それも一年における一日のみ、もしくは数日のことでしかないことが明らかになってきた。

 もちろんそうした背景に加えて、安全や安心がどこまで保証されているかも重大な理由になっていることは事実である。ただこうした国民の思いの背景には、これまで電力会社は会社の収支はもとより電力の売却価格についても、とりあえず公共料金として政府の認可を受けてはいたものの基本的に国民に非公開であったことなどによる不信がある。つまり、「電力会社が何を言っても本当のこととは思えない」との不信の思いや既得権益の確保が狙いではないかなどの疑心が先立ってくるからである。

 こうなると電力会社は政治に頼ることになる。何を言われようとも、「政府が認めてくれています」の一言ですむからである。そして電力不足は供給の停止や電力価格の高騰などを招いて、家庭だけでなく産業にも重大な影響を及ぼし、日本経済に壊滅的な影響を与えかねないとの理屈がそれに続く。そしてついに政府は福井県の大飯原子力発電所の再稼動に向けて動き出した。政府も口だけでは中々信用されないので、原子力安全・保安院であるとか原子力安全委員会の安全に関する確認を経てから自治体なり住民を説得しようとしている。しかもそれは「説得」つまり住民の理解が得られなければ再稼動しないと言う意味なのか、それとも「政府の専権事項」つまり住民の意思にかかわらず政治が勝手に決めることができるのかについても、どことなく揺らいでいるような気がしている。

 本来、現政権は原子力安全委員会を3月末で廃止し新たに原子力規制庁を4月から発足させて、そこで審査なり確認をする予定だった。ところが、消費税増税や国交大臣や防衛大臣の参議院でも問責決議など打ち続く政治の混乱もあって、規制庁の法案はまだ審議にすら入っていない。そこで政府は仕方なく旧体制で再稼動の審議をすることになった。
 そこでの審議結果はこうである。つまり、大飯発電所の所有者である関西電力に対して次の三つの安全基準について意見を求めることとし、その回答を待って政府としての判断をすることにしたのである。その三つとは次のようなものである。

 @ 事故直後の緊急安全対策、つまり全電源喪失時の事態悪化防止策はとられているか。
 A 一次評価ストレステストは妥当か。
 B 福島第一原発事故の技術的知見を踏まえた30項目の安全対策は十分か

 これに対して関西電力は間髪をいれず、僅か数日で回答を出した。

 @ 電源喪失には既に防止策が講じられている。
 A ストレステストは既に完了し、国が「福島第一原発のような地震・津波がきても燃料損傷に至らない」と確認している。なおこのテスト結果に付随して検討事項とされた「一層の取り組み」についてはBのとおりである。
 B 「30項目の安全対策」については、その実施計画を関西電力が明らかにする。

 ところで、@の非常用電源の配備やAのストレステストについては、実は既にこれまでに原子炉の安全にとって基礎的な要件であるとして検討済みである。これはむしろ再稼動以前の問題として、原子炉設置の基礎的な条件でもあるからである。だからこそ再稼動に向けての重要な検討基準として、原子力安全・保安院は「30項目の安全対策」を更に提言したのである。

 私はこの点に関する政府の考え方にどうにも理解できないでいるのである。私のような素人にでも湧いてくる疑問にどうして政府がそんな甘い判断をしたのかがどうにも理解できないのである。この30項目の安全対策は85項目に細分化されている。その全部について私は知っているわけではないが、報道によればこのうち33項目は未実施だとされている(北海道新聞、2012.4.23)。

 にもかかわらず政府は「安全対策を講じる積極的姿勢があればよい」として、再稼動の要件がクリアされたとしているのである。つまり、「これからきちんとやる」との計画書を提出しただけで、政府は再稼動についてお墨付きを与えることにしたのである。

 未実施の数点について考えてみよう。まず免震事務棟がある。これは事故発生直後に司令塔としたり多くの作業員などがとどまる施設である。この施設は2015年までに建設するとのことである。
 他にも事故時に格納容器の圧力を下げるため内部の蒸気を放射性物質を除去した上で排出する「フィルター付きベント設備」も2015年までと先送りされ、防潮堤のかさ上げや送電線の追加接続工事も2013年までとなっている。

 事故の予測はあくまでも確率でしかない。仮に100年以内に起きる可能性が70%と言われたところで、そのことに「絶対」をつけられないことを知らないではない。ただそれは絶対起きるのでもなければで絶対に起きないのでもないのである。そして起きるかどうかの問題は「いつ起きるかか」についても同様である。「3年以内には絶対に起きない」のなら、こうした先送りする理屈が分からないではない。絶対大丈夫である期間の保証があり、その期間を利用して万が一のための対策を講じておくことには、何の疑問もないからである。

 でも万が一の中には、「起きないかも知れない」ことと同時に「今日明日にも起きるかも知れない」がともに含まれているのである。このところにどうして政府は気づかぬ振りをしているのだろうか。政府の承認した数多くの先送りには、「時間」の観念がまるで欠如しているように思えてならない。先送りしても安心であるとの政府の確信は、果たしてどこからきているのだろうか。そうした先送りした期間内に事故は絶対に起きないのだとする根拠を示すことなしに、原発再稼動は安全ですなどとどうしていえるのだろうか。明日にも起きるかも知れない事故の可能性に対して安全ですとの宣言は、私にはあたかも「免震棟やベント設備はなくても大丈夫です」、「堤防のかさ上げの必要もありません」と言っているようにしか思えないのである。

 恐らく電力会社も政府も、堤防をかさ上げすることなんか無駄なことだと感じているのではないのだろうか。無駄だけれど国民が騒ぐので、その騒ぎを押さえ込むためにそのうちゆっくり工事をすればいいんだくらいに考えているのではないだろうか。どうせそのための費用はいくらかかろうとも電力料金に上乗せして国民から徴収すればいいのだし、場合によっては政府から補助金でももらって国民の税金で賄えばいいのだから。
 もし先送りされた設備や対策などが原発の安全対策として必要なものだとするなら、それらの対策を全部終わらせた上で、「これで絶対大丈夫です」、「第三者や専門家も含めてきっちり安全を検証してください」、それから再稼動をスタートさせていいのではないだろうか。

 原発の事故は一過性で済むものではない。場合によってはたくさんの人々の将来や未来までをも含めた人生を根こそぎひっくり返してしまうほどの影響を与えるのである。そんなとてつもない危険に対して、私たちは中途半端な安全宣言や信用できないお墨付きに惑わされてはいけないのではないだろうか。仮に原発の停止によって10数%の電力不足が起きて停電が私たちを襲ったとしても、私たちはそうした不便に耐え辛抱するくらいの知恵は持っているはずである。


                                     
2012.4.25     佐々木利夫


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原子炉再稼動の怪