働くのは男の専売特許で、女は出産と子育てに専念すべきだなどと考えているわけではない。だからと言って極論を言うようだけれど、男にも出産を求めるかのような性差をなくそうとする論調にもどこかついていけないものが感じられてならない。

 つい最近の新聞である。「子供を読む」とのタイトルで掲げられていた記事にどこか引っかかるものを感じてしまった。

 識者らしき人の投稿らしく、「全国各地で出合った高校生に『女性は出産後、仕事をすべきかどうか?』と聞いてみました。統計を取ると『続けるべきだ』と答えたのは52%、『辞めるべきだ』は48%。男女別にみても、ほぼ同じ結果でした」(朝日新聞、2012.11.28、HR編集長男性47歳)とあった。そのことはいい。母集団の数や地域の偏りなど統計的に信頼できるかどうかを検討できる統計データが示されていないことは気になるけれど、アンケートの結果なのだから一応この数値を統計的な意見として是認することにしよう。

 ただ、これに対する投稿者の評価がどうも気になってしまった。一つは「・・・それぞれの理由を見ていると、高校生には、社会の事情よりも、まだまだ育った家庭環境の影響が大きいことを感じます」と分析していながら、そうした評価を読者に納得させるためのデータがまるで示されていないことである。
 そしてもう一つは、「・・・とはいえ、世の中はどんどん、自分の意思とは関係なく女性に働くことを求めるようになるでしょう」とこれまた根拠を示さずに決め付けていることであった。

 第一点については、子供が大人になり、高校生が社会人となっていく過程で、自らの意見が変わっていくであろうことを否定はしない。いっぱしに自分の独創だと大人ぶってみても、場合によってはその考えが仲間や家庭環境などに影響されていることだってあるだろう。だがこの投稿者は、自分が無意識のうちに「高校生は大人になるにしたがって男女の協働参画への意思が高まっていくはずだ」との抜けがたい偏見を持っていることに気づいてない。そのことは「・・・私は『続けるべきだ』がもっと多いと思っていたので、約半数に分かれたことは少し意外でした」(同記事)と書いていることからも推定できる。

 投稿者はその理由として「・・・不安定な時代であり、女性が働くことも当たり前になっているわけですから」(同記事)を挙げている。つまりその原因を「不安定な時代」に求めているということである。しかも投稿者はこの不安定が何かをまるで示していない。リーマンショックやユーロ危機やオバマ大統領再選後のアメリカ財政の崖と呼ばれている世界が不況に向おうとしてしている状況をいうのだろうか。そしてこのような状態はこの高校生が大人になっても依然として続いていくと予想しているのだろうか。

 それとも不安定とは世界不況やそれに伴う日本の連鎖不況などの経済的な状況を言うのではなく、もっと包括的な戦争や内乱や宗派対立、更には政治的な混乱が世界中の各地で勃発している政情不安などを言いたいのだろうか。そしてそれもまた永劫に続くであろうことも含めて・・・。

 もっとも「不安定な時代」を前提としているのだから、その不安定が解消してしまえば投稿者の前提は崩れてしまうことになる。それとも「不安定は終わらない」ことを前提にしたいのだろうか。ただ私に言わせるなら、調査した高校生集団の家庭環境がどうだったかの状況を何一つ示すことなく不安定の意味を定義していないこと、そしてその不安定が家庭環境にどんな影響を与え、更に高校生集団の抱く働くことに対する意識にどんな影響を与えているかについての検証もないまま、三段飛び四段飛びで結論に結び付けていること自体がまさに予断と偏見の結果のように思えてならない。

 そしてそうした偏見は更に第二点で一層激しくなっているように私には感じられる。つまり一点目ではとりあえず原因として「家庭環境と不安定」を挙げているのに対し、二点目では原因はおろか想定さえも掲げることなく、一方的に「世の中は個人の意思とは無関係に女性に働くことを求めるようになる」と断定してしまっているからである。

 投稿者は始めから男女の協働参画を所与の事実として、立証なしに前提にしてしまっているのである。私は母親が働くことを否定したいというのではない。この投稿の中にも引用しているが、「・・・一方、『辞めるべきだ』と答えた理由について、高3男子は『自分が働くから、(妻には)家事をしてほしい』。高2男子は『子どもとのふれあいの時間が大事だと思うから』。高2女子は『こどもがかわいそう。小さい頃はママと一緒じゃなきゃ』と答えています」と思う男女が、事実として存在していることをどのように評価しているのであろうか。

 少なくとも高校生の半分が『辞めるべきだ』を選択しているのである。だとするなら、互いの役割分担を理解したうえで結婚した男女がそうした方法を選んだとするなら、それもまた尊重すべき選択になるのではないだろうか。それでもなおこの投稿者は、母親は働くべきだとの主張に固執するのだろうか。もちろん、「妻が働く」ことが「どんな場合にも正論である」ことがきちんと説明されているなら、それはそれで認めるのにやぶさかではない。でもそのことに反証する機会さえ与えず一方的に断定してしまうの許されないのではないだろうか。

 もし仮にこの投稿者の思いの背景に、「不況はこれからも続き、夫の給料だけではローンも学資も払えなくなる時代が必ずやってくる。だから妻も家計の足しにするためには働かなければならない」との思いがあるのだとしたら、それはまさしく本末転倒である。それは「働かなければローンが払えない」だけのことあって、「妻も協働して家庭を維持していくべきだ」との理屈とはまさに対立してしまうからである。「妻も働くべきだ」という考えと、「これからは妻も働かないと食っていけなくなる」こととはまるで別次元の話だからである。それを認めてしまうことは、「妻はそもそも夫の収入だけで生活したいのに、ローンのためにいやいや働いている」ことが前提にあることを認めることになってしまうからである。

 恐らく投稿者も、そこまで考えての発言ではないだろう。基本には男女協働参画があるのだろうと思う。そうだとするなら、少なくとも「働きたいと思う女性が働きやすい社会を構築」することを主張すべきであって、女性なり妻の意思にかかわりなく「当然働くべきである」であるとか、妻が働くのは「社会の共通する考えである」みたいな前提を検証なく作りあげ、それを所与として結論を導き出す手法はまさに我田引水になってしまっているのではないだろうか。

 そして投稿者の考えの中には「妻が働く」ことに対するイメージに家事や育児が含まれていないように感じられることがどうにも気になって仕方がない。保育所に子どもを預け夕食を外食や調理済み食品に頼ることがあっても、家庭を留守にして外から給料をもらってくることが「働くこと」であり、それ以外の手段は「働くこと」としての評価はしない、専業主婦は労働でないとする抜けがたい思い込みがあるように思えてならないからである。

 もちろん母親に家事や育児を強制することを是認しようとは思わない。だが、家事や育児もまた「働くこと」であるとの夫婦の理解の下で役割分担としての分業であるなら、それもまた協働として理解してもいいのではないだろうか。それが仮に男女の逆転を招き、主婦が主夫になったとしてもである。


                                     2012.12.6    佐々木利夫


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働く母親の意味