「坊主憎けりゃ袈裟まで」の言葉もあるくらいだから、何かのきっかけで抱いた第一印象や先入観などがそのものの本質への理解を歪めてしまうことは、それほど珍しくないのかも知れない。
 実は「花笑みのことば」(清川 妙、佼成出版社)を読みながら、どこかしっくりこない思いが付きまとって離れないことに途中から苛立ちみたいな気持ちに襲われてしまい、書いてある多くにどことない不満の思いが募ってしまったからである。それなら途中で読むのを止めればいいようなものだが結局最後までずるずると読んでしまい、そしてとうとう最後の一行にまで違和感が残ってしまったことは残念であった。

 著者がこの執筆をした目的は、「花笑み」という日本語の持つ優雅で優しい表現を通じて、この言葉以外にも日常的に日本語を大切にしよう、もっと人のこころをなごませる表現に心がけようとする思いにあるのだろう。タイトルそのものにそうした意図が見られるし、「ことばを宝石のようにいとおしんで大切に扱いたい」(P2)との巻頭の思いにもまた私と共通するものがある。だからこそ私はこの本を図書館の書架から抜き出したのだと思う。

 だがこの著作に対する私の偏見は、読み始めたページから臭っていたのかも知れない。なぜなら、「・・・見知らぬ読者からの手紙《に書かれていた》・・・"たちまち、その子は私の子供になります"というのは、"すぐに買って家に連れて帰ります"という意味であろう。私はこの手紙の素直さ、あたたかさ、ほのかなユーモアに心惹かれた。"花笑みのことば"とは、こんなことばをいうのだと思った」(P3)と書かれていたからである。図書館でもいい、友達から借りるのでもいい、そうした購入してくれない読者は対象外であることに、著者は無意識に区別しているような感じを受けたからである。「読んでくれた人」ではなく、「買ってくれた人」に限定されていることから私の違和感は始まったような気がしている。

 そうした著者の立ち位置が、「分かってもらおう」を超えてしまって、「大切にすべきだ」とか「そうするのが当たり前だ」、更には枕草子を引用して「・・・世間の大部分の舅はきまって婿の悪口を言うものだし、姑はまたたいていの場合、嫁いびりをするものだ・・・」(P47)などと断定するにまで及んでしまっているのは、どこか行き過ぎであるような気がしてならなくなったのである。ましてや「ことばを調べるということはほんとうに楽しい。・・・そんなことが楽しいかしら、と思う人は、センスを磨いていけない人だと思う」(P111)なんてことは、あたかも楽しいと思えない人はどこか欠陥人間みたいだと言い募っているようで、鼻白むような思いが伝わってくる。

 気になった箇所に付箋を貼りつけているうちに、それがどんどん増えていくのに自分でも驚いてしまった。その中からいくつかの気になった傾向や文章を取り上げて、この本に対する私なりの読後感にしてみよう。

 著者はこの本で日本語の優しさを語っているはずである。しかし、著者自身「私の外国語はカタコトだ」と自認しているにもかかわらずやたらと外国の話が多い。読んでいて半分以上かなと感じたのだが、もしかしたら7〜8割に及ぶかも知れないくらい外国旅行やそれにまつわる話が多く、いささか辟易してくる。そしてその中から感じたのは、著者は日常使っている日本語の美しさや優しさやその持っている含蓄などに麻痺してしまっていて、日本語そのものに鈍感になっているのではないかとの思いであった。

 そして外国話を除く残りの数割は枕草子や源氏物語や万葉集などの古典が占めている。恐らくそれは外国での会話や古典などを通じて今の日本語を浮き彫りにしたいとの思惑があるのかも知れないけれど、その思惑は成功していないように思える。外国人とのカタコトでの会話を褒め、古典の床しさを懐かしむことのみに終始して今の日本語にどんな問題点があるのかなどへの思いがまるで伝わってこないからである。

 そして一番気になったのは、冒頭でも「この本を買ってくれる人」への賞賛が鼻持ちならないと書いたけれど、随所に著者へ向けられた手紙や会話などによる賞賛の言葉に舞い上がってしまい、そうした人々をよいしょするような記述が余りにも多いことであった。人は褒められて成長するのかも知れないけれど、「私が褒められた」、だからそのお礼に「私があなたを褒めてあげる」みたいな自慢話を延々と続けられてしまうと、どこかで食傷気味になってしまう。

 「何かしてもらったとき、・・・『ご苦労様』とか『お世話様』などということばを使う(が)、・・・これらのことばを私はあまり好まない。なんとなく・・・高いところからものを言う、そんなフィーリングがある」(P62)。
 言葉は使い込むにつれて日常語として磨耗していくことが分からないではない。そうした中には思いやりの言葉が鈍磨していく過程で本来持っているはずの優しさのレベルが低くなっていくような場合もあるだろう。だが逆にとげとげしさから角が取れていって時に親しさを付加していったり、場合によってはその僅かに残されたとげとげしさが逆に会話のスパイスとなるような効果が与えられることだってあると思うのである。言葉にどんなフィーリングを感じるかはその人様々だと思うから、著者が「ご苦労様」の言葉に上から目線を感じたところでそれを批判しようとは思わない。でもそれを上から目線と感じるような日常を送っている著者の思考過程は、私にはどこかまさに上から目線を地でいっている人生ではないかと思ってしまうのである。

 「友達にこんな話を聞いた。彼女がある人に、『私の写真が写真展で特選になったのよ』と言ったときの相手のことばがこうだった。『今年は、あまりいい作品が集まらなかったのね』・・・きっと、その人は親しさに甘えてそんなに悪気もなく、ふと口からこぼしただろう。でも、それはいやみな感じに響いた」(P151)。
 こうして抜書きしてしまうと言葉としての鈍感さや思いやりのなさを感じないではないけれど、会話は他者があってはじめて成立するものである。そしてその他者とは一律の人格ではない。特に日本語は目上や同僚や目下、更には親しさの度合いなどによって微妙なことばの使い分けがある。もしこの会話の相手が無二の親友のような親しい間柄だったとしたなら、この「今年は、あまりいい作品が集まらなかったのね」は、その親しさを増幅させる効果をもっているような気さえする。
 例えばしばらく会っていなかった病気の友達と久しぶりに元気な顔で再会したときなんかには、「おお、お前まだ生きていたのか」なんて会話は男同士ではそれほど珍しくないと思うのだが、女性には通じないのだろうか。ここを読みながら私には、彼女は反語などに込められたジョークや優しさや親しさなどに鈍感になっているのではないかと思えたのである。

 そして最後の行はこの本の総括でもあるだろうに、私のこうした偏見を後押しするに足る極め付きの一言で結ばれていた。
 「今度の部屋は家具もベットも大変エレガントで快適な部屋だったことは特筆しておこう」(P205)。
 外国での宿泊である。予約していたにもかかわらず、そのホテルの部屋は小さくて窓は高く、まるで屋根裏の女中部屋という感じで、レストランも予約されていないとの理由で食事も断られたのである。そして怒り心頭の彼女は「ホテルを代わりたい。オーナーに会わせて・・・」私は憤然と言った(あまり流暢でない英語でケンカしなくてはならないとは・・・)(P200)と叫ぶのである。
 次の日彼女は別のホテルに泊まる。そしてどうしたことか三泊目にはなんとこのホテルに戻ってくるのである。そしてその結果が上述した結びの行の一言に結びつくのである。彼女の放った流暢でない英語でのケンカは、かくも抜群の効果をもたらしたのである。まさにクレーム万歳だったのである。エレガントで快適な部屋で彼女は満足して宿泊したのである。もしかしたら料金以上の待遇に、もしくは無料の招待に、一昨日のクレームの効果をゆったりと味わったのではないかなどと感じるたのは私の下司のかんぐりでもあろうか。こんなことが気になってしまうと、どうってことのない「ベット」と「ベッド」のような些細な言葉の違いにまでどこか気になってしまうのである。


                                     2012.2.15    佐々木利夫


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