1月も末になって寒さは益々厳しくなり、今年の日本列島は特別らしいけれど日本中が雪に埋もれているような気配である。そんな月末の今朝、久しぶりに我が家から地平線を昇る朝日を見た。私が住んでいるマンションの6階からは、かつては天気さえ良ければ毎日のように日の出を見ることができた。南東に向いている窓からは日の出を遮る建物もなく、時刻こそ季節によって異なるけれど確実に朝日が差し込んできたからである。

 ところが数年前に真正面の道路一本隔てた空き地に我がマンションよりも高いマンションが立ちはだかり、その朝日を遮るようになってしまった。私のマンションと並行に建てられたのではなく直角だっから一年中日陰になるわけではないのだが、そのマンションが真正面に建てられたことと我がマンションのベランダが南東に向いていることから、冬至前後の朝日がもろに目隠しされてしまうことになったのである。

 その経緯を説明すると、冬至前後の日の出の時刻は午前7時前後であり、私の起床する時間帯が6時半前後であることを組み合わせて、とんでもないことになってしまったのである。日の出の時刻は季節によって異なることは当たり前である。そして夏至の頃の日の出が一番早く午前4時少し前、冬至の頃が一番遅くて午前7時前後である。そしてこれに日の出の位置関係を重ねてみよう。夕日の沈む位置も同様だけれど、朝日の出現する位置も毎日のように異なっている。どこから始めてもいいけれど、冬至がもっとも南寄りの位置から日が昇り、その位置が毎日少しずつ東へと移っていって夏至にはもっとも東寄りから昇る。そして夏至を境に日の出は遅くなりつつ西への移動を冬至まで続けていくのである。

 ところで夏至の日の出は午前4時前だから、とてもじゃないが私はまだ布団の中で白川夜船である。元旦のご来迎ではあるましい、わざわざ日の出を見るために目覚まし時計をかけておくほどの酔狂さは持ち合わせていない。しかもその時の日の出は我がマンションのベランダの視界から外れそうなほど東の端である。カーテンを開けて椅子に腰掛けてゆったりと日の出を楽しむなど位置的にも無理な話である。

 その夏至から冬至にかけて毎日少しずつ日の出の時刻は遅くなり、同時に昇り始める位置も理屈では西方向へ(私の実感では南へ)と移動していくのである。そして冬至の頃が私の目覚めの時間帯と部屋からの真正面という位置が一致することで理想的な観測ができるのである。太陽を直視することは昼間なら眩しくてできないけれど、朝日や夕日などならゆっくりと眺めることができる。夕焼けもいいけれど、朝ぼらけを待ちながら少しずつ明るくなってくる空を眺め街並みの端にきらりと光る日の出を待つのもけっこう豊かな気持ちになれるものである。ましてや自分の机で寝巻き姿のまま椅子をぐるりと窓側に回しての朝日はまた格別なものがある。

 その格別な朝日の観測が向かいのマンションに奪われてしまったのである。かつては日照権と呼ばれる権利が様々に議論されたし、また眺望権などという新語も生まれるなどもあった。だがマンションが林立する時代になってその一室に私自身が居住してみると、遠い山並みや家並みの列にそれなりの眺望を感じたところでそれはいずれ誰かが私の視界を遮る場所に高層建築を建てるまでの過渡的な眺望に過ぎないのだと気づく。なんたって、私自身が住んでいるマンションそのものだって私の背後に住んでいるであろう多くの人々の眺望や午前中の日差しを阻害していることになっているからである。
 別に「いつでも富士山が見えます」とか「このマンションの売りは太平洋を一望に眺められることです」みたいな謳い文句でこのマンションを購入したわけではないし、冬至の太陽を奪ったとされる向かいのマンションの住人にしたところで私のマンションが夕日の眺望を阻害しているのだから、もしかしたら目障りだと感じているかも知れないではないか。

 かくして私の部屋から冬至の日の出が失われ、毎日の目覚めの時刻と組み合わせることで日の出そのものが私の生活から失われることになったのである。
 と言ってしまうと少し嘘になる。冬至が近づいて向かいのマンションによって私の日の出は遮断されたことに気づいた。だが冬至を過ぎて朝日は少しずつ東へと戻り始めたのである。もちろん日の出は遮られているから、空が次第に明るくなっていき時に太陽が輝いている気配を感じることはできても、東へ移っていく事実を確かめることはできない。頭の中で夏至との真ん中である春分の日か秋分の日近くににならないと窓からの日の出は戻ってこないのだなと、漠然と考えていただけのことである。

 それが今日1月31日、締め切っていたカーテンの隙間から突然赤い光が射し込んできたのである。思わずカーテンを開け時計を見た。7時に10分ほど前であった。毎朝7時を過ぎないと昇らない日の出が、冬至から一ヶ月少々を経て昼の時間を延ばし、少しずつ東に移動してどうやら向かいのマンションの左の端から僅かに顔を覗かせるようになったのである。

 冬至の朝日から遠ざけられて数年、日の出とは無縁の環境になったと思い込んでいたのだが、恐らく毎年のように2月になるかならないかの頃には同じように朝日はその顔を見せていたのだろう。寒さの中カーテンを開けようとも思わずに新聞やテレビを見ていた私の背中から、地球は正確に太陽を巡り寸秒の違いはともかく毎年同じような位置からの日の出を繰り返してきたのだろう。そのことに私は今年改めて気づいたのであった。

 もちろん向かいのマンションの左端からやっと顔を覗かせた日の出は、天体運行の原則に従って僅かずつ高度を上げつつ南中しやがて日没の西へと向うことなる。だから昇ると同時に太陽はまたそのマンションへと隠れてしまうのだが、日の出の位置が東に移るに従い、向かいのマンションの左端からも離れていくことになる。だとすれば日の出を眺めることのできる時間帯もまたこれからは少しずつ多くなっていくことになる。

 季節はまだ真冬である。今年の冬は東北や新潟などに記録的な豪雪をもたらしているようだ。寒さの底は2月末頃になるだろうから冬本番はまだまだこれからである。3月の確定申告の終わる15日頃になると日差しは確実に春を知らせてくれるから、春の実感にはもう少し待たなければならない。
 それでも日の出は我がマイホームの窓にも訪れてきたのだし、これからは望みさえすれば、そして東の空が晴れてさえいればいつでも眺めることができるのである。そして東へ東へと少しずつ移動していく日の出の位置の変化は、そのまま春が近づいてきていることの証しでもあるのである。


                                     2012.1.31     佐々木利夫


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東へ移る春